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沖縄ーオキナワ 見聞録 (アブチラガマの悲劇)
今までの見聞録は
主に沖縄の”明”を取り上げてきた。

今日は好対照の
闇に包まれた部分にスポットを当ててみた。

”ガマ”とは沖縄の言葉で
石灰岩で出来た自然洞窟の意味だ。

沖縄本島は
殆どが自然サンゴ礁なので
長年にわたる侵食によって出来た自然洞窟が
各地に存在している。

そして、この”ガマ”は
太平洋戦争の時に
当初は一般住民の避難場所として使われた。

沖縄は先の太平洋戦争のとき
一般人を巻き込んだ地上戦を経験した
日本で唯一の場所である。

繰り返すが
沖縄は激しい地上戦の為に
一般人の多くが犠牲となった地である。

どうしてそのような事になったか、
それは誰もがよく知っているであろうが
この機会におさらいして見よう。

1945年戦争末期、
日本の敗色濃厚となったときに
軍部が取った作戦は
日本の本土決戦だった。

但し、本土決戦の為の
用意、準備期間が必要だった。

その為に、米国を沖縄で
出来るだけ釘付けにする作戦を取ったのだ。

言ってみれば、沖縄は
本土決戦の為の捨石となったのである。

どう考えてみても
小さな島を米国の盾に使うのは
愚かな考えだと思う。

戦争は人の心を狂気に染めてしまうのだろう。





沖縄の南、南城市、
玉城の糸数という小さな村に
”アブチラガマ”の名前で
今でも公開されている
戦跡がある。
沖縄ーオキナワ 見聞録 (アブチラガマの悲劇)_c0135543_20402639.jpg

尚、”アブ”とは深い縦の洞窟、
”チラ”とは崖の事を言う。

このガマは全長270メートルにも及び
内部は真っ暗、ほぼ真の闇である。
沖縄ーオキナワ 見聞録 (アブチラガマの悲劇)_c0135543_2041261.jpg

従って、懐中電灯を手に、ヘルメットを被っての
見学には相当な時間を要する。

今回は、時間の関係で
残念ながら内部の見学は出来なかった。

しかしながら入り口周辺の様子から
当時の悲惨な様子を垣間見る事ができた。

このガマは元来は糸数集落民の指定避難壕だった。

それが主戦場の南下により
陸軍病院の分室となり
負傷兵、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊、
計600名以上の人でガマは埋め尽くされた。

               (ガマの狭い出入り口、下への勾配は急であり
                負傷兵、病人の搬入には困難を極めただろう)
沖縄ーオキナワ 見聞録 (アブチラガマの悲劇)_c0135543_20441038.jpg

ガマ内は負傷兵と村民がひしめき合い
さながら地獄絵図のようだった。

               (ガマの一方の出入り口、
                当時は目に触れぬよう大木の陰に隠れて掘られていた)
沖縄ーオキナワ 見聞録 (アブチラガマの悲劇)_c0135543_20463258.jpg

やがて、軍関係者の収容が増えるに従って
糸数の住民は劣悪な環境とは言え
避難場所から次々と追い出されて行った。

中には、ガマから追い出され
近所のススキの茂みに潜んでいた所
艦砲弾の攻撃で
家族一同命を落とした村民も居たと言う。

太平洋戦争末期の沖縄戦、
米軍が4月に上陸し
作戦終了宣言が7月上旬の事だった。

この間、沖縄出身兵2万8千名及び
沖縄一般住民9万4千名の命が失われた。

当時、沖縄の人口は約50万人。

ということは、沖縄の人たちの
4人に1人が戦争の犠牲になったのだ。
沖縄ーオキナワ 見聞録 (アブチラガマの悲劇)_c0135543_204322100.jpg

この人たちの死を無駄にしない為には
最低限この事実を
後世に語り継いでいく必要がある。

沖縄の青く澄み切った空と
アブチラガマの深い闇
何なんだろうこの落差は????
by shige_keura | 2009-02-10 09:46 |
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