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大森・羽田海道 (貝塚の怪ー2-)
大森の貝塚を語る時
避けて通れぬ人
それは申すまでも無く
モース博士だ。

            (モース博士像、遺跡公園内)
c0135543_18392536.jpg

アメリカの生物学者であった彼は
東大の教授として招かれ
船で横浜に着いた。

時に1877年6月18日
博士の39歳の誕生日のことだった。

翌19日、彼は横浜から
電車で東京に向った。

大森を過ぎて
ふと左を見たとき
彼の目に地層に剥き出しになった
大量の貝殻が飛び込んできた。

           (地層から見える大昔の貝殻、遺跡公園内)
c0135543_1841133.jpg

専門の考古学者ではなくとも
彼は、ここはかつて人類が
生息していた場所だと推論した。

ここで注目すべきは
それまで日本人は
誰一人として気がつかなかったことである。

その時代、考古学としての学問が
日本では他国に比べ
相当に遅れていたということだろう。



モース博士は
東大での仕事はさておいて
同年の9月16日に
発掘調査を開始した。

そして、僅か5日の後に
大森貝塚の論文を発表した。

           (縄文人が暮らしていたとされる痕跡、遺跡公園内)
c0135543_1845039.jpg

異常なまでに性急に事を運んでいる。

それは、恐らく同じ発掘調査を急ぐ
一人のライバルの存在を
うすうす感じ取っていたのではないだろうか?

その男の名前は
ハインリッヒ・フォン・シーボルト、
父が西欧での日本研究の草分け
フィリップ・フォン・シーボルトである。

ハインリッヒはモースと同時期
外交官として来日し
造詣の深い考古学研究を行っていた。

そして、モースと相前後して
大森貝塚の発掘を行ったものだから
事はややこしくなってしまった。

世界的に有名な”Nature”誌を顧みると
1877年12月19日に
モースの貝塚発掘の記事が出ている。

一方、シーボルトの活動は
翌年1月31日の
同じ”Nature”誌に報じられている。

最終的にはモースの正式報告書が
いち早く出版されたことにより
彼が大森貝塚の
最初の発掘者として
認知されたのだ。

ところが、このモース氏が原因で
貝塚の正確な場所が紛糾するのだが
続きは明日に、
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by shige_keura | 2010-01-22 08:56 | | Comments(0)
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