モース氏は専門家と言っても
正確には考古学ではなく 生物学の権威だったのだ。 彼の最終的な報告書には 致命的なミスがあった。 それは、発掘場所が 大森村と述べられているだけで 詳細な場所の記述が無かったのだ。 これは、考古学の報告書としては ありえない事であるそうな。 時を経て1929年になり 学術的な調査の結果、 品川区西大井に ”大森貝塚”の名前で建立された。 その場所は今は 大森遺跡公園の一部となっている。 ところが、翌1930年、 大森駅近くの大田区側に 同じような貝塚の碑が ”大森貝墟(かいきょ)”として建てられた。 碑を建てた人、佐々木忠次郎氏は モース氏の直弟子であって 実際に発掘に参加した人であることが 話をややこしくさせた。 発掘の当事者の記憶に辿った場所が ”大森貝墟”との主張は重みがあり 無視するわけにはいかなかったのだ。 以来、50年にもわたる 貝塚論争が続けられ 最終的には品川区側が 大森貝塚と認知されたようだ。 何故なら、品川区側には 多くの貝殻等が発見された一方、 大田区側には貝塚の痕跡が 認めらえなかったのだから。 最終的には、 品川区側の碑のある場所が 大森貝塚として認定されたようであるが・・・・・・ 個人的にはどうもスッキリしない。 何故なら、下の地図にもあるように ここ一帯は貝塚のさながら宝庫であり 大田区側に貝が見出されなかったとは 信じがたいのだ。 モースにシーボルト 大田に品川、 貝塚を巡って かような裏話があったとは!! 今となっては すべてが謎に包まれている。 「貝が怪を呼ぶ物語」とはこのことだ。 (遺跡公園内には30分毎に蒸気が噴出す場所がある 貝塚と何の関係があるのだか??説明は全く無い これも現代貝塚の怪なのだろうか?)
by shige_keura
| 2010-01-23 22:52
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