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大森・羽田海道(羽田道を行く -2-)
羽田道の基点を誇示するかのように
真っ赤な大鳥居が
空港を背景にそびえている。
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元々は羽田空港内に
建てられていた大鳥居だが
敗戦による米軍の接収
返還後の滑走路の建設等で
2度にわたる引越しを余儀なくされた。
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羽田の再国際化の動きの中
今後は場所を動くことなく
ここから飛行機発着の無事を
いつまでも見守っていて欲しいものだ。
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その名の通り
エビの漁場であった
”海老取川”を渡るが
橋には、これまた
大森・羽田の経済を支えた
海苔養殖を伝えるプレートが
はめ込まれている。
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羽田の海を左手に七曲の小道を
羽田の渡しに向う。

途中、”白魚稲荷”、”鴎稲荷神社”
漁業と縁深い名前の
小さな神社が目に付く。
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               (白魚神社)
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               (鴎稲荷と羽田道の碑)
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中では”穴守稲荷神社”の
威容がこの地では際立っている。
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”穴森稲荷”の名前の由来については
次のような話が残されている。

海に隣接した羽田一帯は
1800年代の初頭、
台風の影響で
度々堤防に穴が開いて
海水が浸入する被害に
脅かされていた。

そこで稲荷大明神を祀ったところ
それ以降は被害がおさまった。

そこで”穴が開くのを守ってくれた大明神”、
すなわち、”穴守稲荷神社”となったわけだ。
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羽田の渡し跡、
何艘かの釣り船が
往時の面影を伝えている。

               (現代の羽田の渡し跡風景)
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大師橋が出来るまで
ここは蝦蛄の名産地として
その名を轟かせていた。

              (江戸から昭和初期にかけての”羽田の渡し”)
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朝早く、蝦蛄を初めとする
海の幸を山ほど積んで
行商人は大八車を引き
羽田道を市場に向う。
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大八車の後には
古女房がついていく。

何故なら、ほどなく差し掛かる
呑川の坂が難所となるためだ。

              (”呑川”にかけてのダラダラ登り道)
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ここを過ぎれば、後は平坦道
女房は手を振りながら
家に戻って行く。

              (”呑川”の橋の上から、
               現在は埋め立てられており川としての機能は
               ”新呑川”に移っている)
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大森の養殖海苔の
故事を伝えている貴船神社、
”水止舞”が有名な
厳正寺を横に見て
ゆっくりと大八車は進む。
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              (貴船神社)
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尚、”水止舞”(水止の舞い)は
降り続く雨に為に
漁業、農業が立ち行かなくならぬ為に
舞を天に献じて祈ったもので
今でもこの風習は続いている。
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又、この近くには
不幸にして海で命を落とした人々を供養する
海難供養塔が残されている。
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この供養塔の建立は安政2年(1855)
東京湾岸中、屈指の規模を誇るものだ。
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暫く進むと
商店街と言うには侘しすぎる
”するがや通り”を経て
旧東海道に合流する。
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              (するがや通りと羽田道の碑、そして侘しい商店街)
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              (通りに埋め込まれた魚貝の絵が
               わずかに往時の面影を伝えている)
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”するがや”の言われは
ここに江戸時代
”駿河家”の名前の旅籠があり
一代の侠客、幡隋院長兵衛”が
常宿としていたことによる。

              (東海道と羽田道の分岐点に埋め込まれている
               幡隋院長兵衛の絵)
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さて、東海道に合流したといって
ここが最終地点ではない。

行商人はさらにここから
日本橋(築地)の市場を目指し
大八車を引いて行かねばならない。

こうして、最終的には日本橋の市場で
下町の魚屋の手に移ったのだ。

今では想像もできぬ
苦しく困難な毎日の行商の結果
庶民、その時代の”正ちゃん”宅の食卓に
新鮮な海の幸がのぼることが出来たのだ。

食の大切さ、有り難味が
今とは比べ物にならぬほど
身に沁みた時代の物語である。

その”物語”を支えた”羽田道”
なかなか味わい深い散策となった。
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by shige_keura | 2010-01-26 09:43 | | Comments(0)
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