1931年、日本初の
民間空港、”東京飛行場”誕生!! 滑走路はたった1本、 長さは僅かの300メートルではあったが 洒落た搭乗待合室の物珍しさも手伝い 一般の人々の大きな注目を集めた。 しかしながら事態は一変する。 1945年、日本敗戦!!! この厳しい事実が 羽田の人々、空港に突きつけられた。 当時羽田空港地区に住んでいた約3,000名の住民は 48時間以内強制退去という 一方的な通達を口頭で受け 即座に住み慣れた土地を離れねばならなかった。 強制退去は住民だけに止まらず 人々に親しまれた穴守稲荷神社までもが その場所を移らざるを得なかった。 このとき、奇妙な出来事が起こった。 神社参道の大鳥居移設を始めようとすると 工事関係者の事故が相次いだのだ。 このため、大鳥居だけは引越しを免れ 神社とは別々な生活を歩み始めたのである。 その後も大鳥居にまつわる話しは相次ぎ 特に事故続出の1966年には 真面目に大鳥居の祟りの噂が広まっていった。 2月4日 全日空札幌便着陸失敗 乗組員133名全員死亡 3月4日 カナダ航空機着陸失敗炎上 64名死亡 3月5日 羽田発BOAC便 冨士山上乱気流による墜落 114名死亡 確かに異常なまでの事故の多さである。 因みにこの大鳥居は 1999年滑走路建設に伴ない 多摩川河口に移され 今も飛行機の離着陸を見守っている。 敗戦直後の時代に戻ろう。 空港は連合軍に接収され ”東京空港”の看板に代わって ”ハネダ エアベース”が掲げられ 日本人の手を離れていった。 「わが空はわが空ならず秋の空」 この句は当時朝日新聞に掲載された 航空関係者が詠んだものだ。 仰ぎ見る空、それは吾等日本の空である、 にもかかわらず自分たちが自由に使えぬ 無念さが滲み出ている。 日本人が空を取り戻したのが1958年、 終戦後13年を経て空港の全面返還が実現した。 漸く、暗黒の羽田の空に光が差込み 未来への希望が膨らんできた。 以下は明日に続く。
by shige_keura
| 2010-03-10 08:44
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