Top
因縁の二人、共に逝く
テレビへ登場する時は粋な和服、
小気味の良い”べランメー”口調、
「アッパレ!」と「喝!」で茶の間の人気をさらった
大沢親分こと大沢啓二さんが7日に死去された。

突然の訃報に接した時
やはり今年の7月に亡くなった
因縁の人を直ぐに思い出した。

あの時の因縁を携えて
お二人は同じ年に逝ってしまった。

その人とは砂押邦信、元立教、国鉄スワローズ監督、
彼も本年、7月18日に87歳で亡くなられた。

砂押さんは監督として、1953年春、
立教を20年ぶりに優勝に導いた人だ。

更に、立教野球部黄金時代
即ち1957年からの4連覇の立役者と言われている。

しかしながら、砂押さんは
1955年に立教監督を辞している。

より正確に言えば
野球部生徒からの排斥によって
辞めさせられたのである。

プロ野球でも滅多に起こらない選手の監督排斥!
学生野球ではあってはならぬ不祥事のはずだ。





そのとき、砂押さんに最後通牒を突きつけたのが
当時最上級生だった大沢さんだった。

大沢さんは自分でも述懐しているが
野球人にならなければヤクザになっていたというほど
血の気が多い上に親分肌、
砂押排斥の急先鋒にまつりあげられた。

その”大沢みこし”を担いだ下級生の中に
長嶋、杉浦、本屋敷の
4連覇を支えたトリオがいた。

彼らにしてみれば
真っ暗闇の中で1000本ノックを強いる
砂押流スパルタ練習についていけなかったのだ。

排斥騒動は日に日に火勢が強まり
遂に時の総長、松下正寿を巻き込むこととなった。

事ここに至って
一人責任を取って砂押さんは辞任した。

当時の論調は砂押被害者、大沢加害者。

大沢さんは態度と顔も災いしてか、
一方的に悪人に仕立て上げられたと記憶している。

しかしどちらが悪いの話しでは無かったに違いない。

監督と選手と言っても
年齢は僅かの10歳違い
血の気の多い兄弟げんかが
共に引くに引けぬ局面にまで発展した結果なのだろう。

”大沢みこし”を担いだ長嶋も
自分がプロで大きく羽ばたくことが出来たのは
砂押監督の教えのおかげだと後年語っている。

更に、長嶋らしい行動を起こしたことがあった。

巨人の現役時代、
一大スランプに落ち込んだ長嶋は
なんと当時、ライバルの国鉄監督であった
砂押宅に押しかけアドバイスを求めたという。

砂押排斥で揺れたのが1955年
半世紀以上前のことだ。

今よりも、もっともっと血潮の熱い野球人が
汗と泥にまみれた頃の物語である。

最後に大沢親分が
立教のレフトとして活躍していた時に成しとげた
恐らく世界で唯一の記録を紹介しよう。

それは、1954年10月3日の立教対東大のことだ。

この試合はエース杉浦を立てた立教が
東大を5-1で下すのだが
事件は4回の表東大の攻撃中に起こった。

打者は投手の原田、
予め浅く守っていたレフト大沢の前に
三週間を破った当たりが飛んできた。

大沢はこの打球を処理するや否や
強肩を利して1塁に送球した。

原田も油断していたのだろう、
まさかレフトが1塁に投げるとは思っていなかった。

結果は誰もが驚くレフトゴロが記録された。

大沢親分、真に”アッパレ!”
原田は”喝!”である。

今頃、大沢さんは因縁の砂押さんと
仲良く野球談義に興じていることだろう。
[PR]
by shige_keura | 2010-10-08 09:36 | スポーツ | Comments(0)
<< メキシカン北京ダック 昨日”イケメン”今日”イクメン” >>



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
→過去のブログを見る


ホームページ 



LINK 

カテゴリ
全体



スポーツ
その他
LINK
トリップアドバイザーにお勧めブログとして認定されました。金沢 ホテル
旅行口コミ情報
最新のコメント
懐かしい名前を拝見いたし..
by モモタロウ at 17:42
↑恥ずかしいからそういう..
by Hiraoka at 17:45
試合はブチ切れるし、判定..
by shige_keura at 09:36
コメント有難うございまし..
by shige_keura at 18:00
全話をチェックした訳では..
by 通りすがり at 16:23
以前の記事
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
more...
検索
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

LINK FREE

このブログの写真・テキストの無断使用はお断りします。

(c) 2007 shige_keura. All rights reserved.