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初春浅草そぞろ歩き (聖天様とトーキー映画)
冬の青空にスカイツリーが聳え立っている。
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左側に見える橋が言問橋、
この橋の程近くの待乳山聖天、
そぞろ歩きの目的のひとつである。
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待乳山の読み方が、”まつちやま”であることは
中学生の時から知っていた。

何故なら、待乳山は大相撲の年寄り名跡の一つで
ちょうどそのころ出羽の海部屋で関脇まで上がった
両国梶之助が松乳山を名乗り
検査役として土俵下に座っていたからだ。

しかしながら、年寄り名跡の由来が
浅草の待乳山聖天にあることを知ったのは
大分先のことである。

多くの人々は浅草寺に流れるようで
正月松の内にもかかわらず
境内は閑散としている。
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但し私がここを訪れたのは参拝の為ではなく
ここに建立されている一つの碑を見る為に来たのだ。





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「トーキー渡来記」、
石碑にはそう書かれている。
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大仰なタイトルだが
書いた人は皆川芳造、
文章を読むほどに自己宣伝の匂いが強烈!

余り好きになれそうもない人のようだが
トーキー映画技術をアメリカより持ち込んだ皆川芳造なければ
日本の映画の発展は遅れたに違いない。

彼はアメリカの発明家、デ・フォレストが考案した
トーキー技術に興味を持ち
都合9回の渡米をした結果
日本での製造、販売権を獲得した。

帰国後、皆川は東京の大森に
大森キネマ撮影所を設立し
我が国でいち早くトーキー映画の製作に乗り出した。

彼は自らが製作したトーキー映画を
”ミナトーキー”と名付け
第一作、「素襖落」を1927年(昭和2)
帝国劇場で華々しく上映した。

               (「マダムと女房」のロケ風景、場所は田園調布)
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その後、1931年(昭和6)
松竹蒲田が全編トーキー処女作
「マダムと女房」を製作し
日本は本格的トーキー時代へと入っていく。

トーキー出現の裏で
活弁士は職を失い、
科白の下手な役者は淘汰されていった。

しかしながら、トーキーは
映画を庶民にとっての最大の娯楽に押し上げた、
その最大の功労者と言っても過言はあるまい。
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by shige_keura | 2011-01-17 09:07 | | Comments(0)
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