ひと昔前の話だが、
文芸春秋社が「洋画ベスト150」と銘打って 古今東西の名画アンケートを試みた事がある。 そのなかにチャップリンの作品の数多くが 高い評価を得て並んでいる。 「黄金狂時代」(15位)、「モダン・タイムス」(16位) 「独裁者」(24位)、「街の灯」(27位)、 「ライムライト」(31位)、「殺人狂時代」(78位) 一方、ジャック・タチの作品は 「ぼくの伯父さん」が唯一、133位に選ばれているだけだ。 この結果から見る限り ジャック・タチはチャップリンの足元にも及ばぬ存在となる。 私もチャップリンの作品の素晴らしさは認める、 が、しかし彼の作品は好きではないのだ。 チャップリンの作品は面白いし風刺も鋭いのだが、 見終わった後、心底心地よい気分とはならないのだ。 その理由は、ひとつはチャップリンの全力投球にあり 更には強烈すぎる自己主張にあるのだと思う。 例えば、「黄金狂時代」の中での有名な場面、 雪に閉じ込められ、飢えを凌ぐため どた靴を煮てステーキに見立てて食べる所だ。 チャップリンの演技は秀逸なのだが 段々と笑えなくなってしまうのだ。 「そこまでやらなくて結構」 そのような気分になってしまう。 「モダン・タイムス」も素晴らしい映画だ。 しかし、機械文明を皮肉るために チャップリンが自動食事機の実験台にされる場面は これまた場面が続くにつれ、辟易とした気持ちになってくる。 彼の映画、どれをとっても 画面の中からチャップリンの押しつけがましさを感じてしまうのだ。 画面からは絶えず、「私は凄いでしょう!」、 「私は天才です」、チャップリンの言葉が 常に耳元で響き鬱陶しさを感じてしまう。 さて、ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」だ。 この映画からタチの力みを感じた人はいないだろうし 彼の自己主張もどこにも見当たらない。 この映画で、彼はオートメ化した上流階級の社会と 昔ながらの下町の生活を対比している。 しかしながら、彼はどちらが良いとは言っていない。 オートメ化した便利な社会の普及も認めている。 しかし、私には人情味あふれる下町の社会 人間味が感じられる世界の方が性に合ってると言ってるだけなのだ。 今の言葉で言うならば ユロ氏(タチ)はデジタルよりアナログが好きと言っているが それを押しつけているわけではない。 この映画の一方の舞台となっている ユロ氏の親戚の超モダンなアルベール氏の邸宅は 実際にタチのニューヨークでの経験が生かされている。 タチは1950年代の半ばニューヨークに招かれるのだが 最初は快適に思われたオートメの生活に追いまくられ リズムを狂わせてヘトヘトに疲れてしまったのだ。 それは映画のアルベール氏の子供も同じ、 彼は学校から超モダンな我が家に入った途端 人が変わったかのようにふさぎこんでしまうのと同じである。 彼には学校の帰り道、 大人をからかっていたずらをしたり 原っぱで揚げパンをかじりながら 子供同士で賭けごとに興じている方がよほど楽しいのだ。 ユロ氏は、しかしながら子供と自分のペースで付き合うだけで 結局は助けることはできず、自分からパリの街を出て田舎へ帰ってしまう。 この時点で、タチは大都市、 パリの変貌を許容せざるを得なかった。 又、その変貌をユロ氏は批判してはいない あくまでも時代の移り変わりと淡々と受け入れている。 それだけに、観客としてみれば ユロ氏が好きな人情味溢れる社会に対する 強い郷愁をより一層感じてしまうのだ。 チャップリンとタチ同じ優れた映画人ながら 根本的に目線が違うような感じを受ける。 勿論、私は包み込むようなタチの優しさに肩入れする。
by shige_keura
| 2011-04-25 09:52
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