ローマ帝国の起源を帝政ローマと規定すれば
その始まりは紀元前63年、初代皇帝はアウグストゥスとなる。 誕生以降、西ローマ帝国は476年、 東ローマ帝国は1453年迄、 世界史にその名前を刻みこんだ。 帝国を領土的に見た場合、 117年のトラヤヌス帝、治世下に最大となる。 その面積は約500万キロ平方メートル、 これは今の世の中で比較すれば ロシア、カナダ、中国、アメリカ、ブラジルに次ぎ第6位、 欧州全体面積の50%にも及ぶ! これは、古代から近世へかけての世界史上、 稀に見る大帝国に違いない。 広大な領土を持つ帝国ローマ その長い歴史上には当然、紆余曲折、浮き沈みが繰り返されていった。 長い歴史を帝政後期として切り取ってみると その始まり、284年に皇帝ディオクレティアヌスが登場する。 彼は、数多くのローマ皇帝の中でも名前は売れていたが 今回、所縁の土地を訪ねることで 彼のユニーク性をより知ることとなった。 ディオクレティアヌスは244年、 現在、クロアチアの第2の都市、スプリットの北へ5キロ、 サロネと言う小さな村に解放奴隷の子供として生を受けた。 (バスより見たサロネの遺跡、背後は今の町) その後、戦乱の世で頭角を現した彼は、 40歳の時に頂点、皇帝の座に就いた。 さて彼は皇帝在位中何をしたのだろうか? 彼のマイナスも含めた業績を3点に絞ることが出来る。 先ず、広大な領土を一人の皇帝での統治は無理と判断した彼は 帝国を4分割して、それぞれに皇帝を置く いわゆる”分割統治方式”を導入した。 (帝国四分割統治) これによって、争いが続き、荒廃したローマに 再び安定の時期が訪れた事は確かだ。 次に、彼は20年間皇帝を続けたあと 自分で後継者を指名し隠居生活に入ったことだ。 これによってディオクレティアヌスは生前中に退位した 帝政ローマ史上最初の皇帝となったのだ。 次に、今となってはマイナスイメージだが キリスト教を弾圧し続け多くの殉教者を出したことだ。 彼の退位から僅か8年後の313年に キリスト教はコンスタンティヌス帝によって認められたわけだから ディオクレティアヌスは古代ローマで キリスト教を弾圧した最後の皇帝と言って良いだろう。 彼は退位後、故郷に程近いアドリア海に面した 前述のスプリットの町に宮殿を築き 今流のスローライフの余生を6年間楽しんだ。 (ディオクレティアヌスが過ごした宮殿) さて、面白いことは、今から1700年も前に作られた宮殿に 今でも600人を超える人たちが生活を営んでいる事なのだ。 これには次のような背景がある。 アドリアヌスが311年世を去ったあと 主を失った宮殿は荒廃し廃墟となってしまった。 ところが、7世紀に入って 彼の故郷、サロネの村にオスマントルコが侵入、 村民は村を明け渡さざるを得なくなった。 家を失った人々がすがったのが 自分達の村の出身者であった皇帝が隠居生活を送った宮殿だったのだ。 どっしりとした石造りの古代の遺跡を住居として日々の生活を営む人々、 それは我々観光客にとっては実に不思議な光景だった。 或る家は、朽ち果てたまま、荒れ放題の貧困、 その隣にはリノベーションをした味のある住宅が存在している。 外から宮殿の壁を眺めると 古代の遺跡と洗濯ものが同居している。 城壁内には今でも市場が開かれており 亭主が仕留めた海の幸を 女房殿達が、いとも逞しく魚を捌いている。 一刀両断、どれも豪快なるぶつ切りだ!! 勿論、カフェ、ギフトショップも軒を連ね 地元の人、観光客が入り乱れている。 ただ、生活している人たちは実にマイペース 人の目は全く気にせず自分達の生活を楽しんでいるようだ。 流石、スローライフ皇帝の末裔たちだけの事はある。
by shige_keura
| 2011-06-28 17:32
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