銀座三越で行われている ジェームス・ディーン生誕80周年展、 最終日の10月25日、何とか駆け込んだ。 そうか! そうだったのか!! ジミーはもしも生きていれば今年80歳、 長寿化社会においては元気でいても不思議ではない年齢だ。 もしも、あの忌まわしき事故が無かりせば、 ジミーはどんな男になっていただろうか? 全ては推測で探るしかないが 監督として映画を取り仕切っていたことは ほぼ間違いないだろう。 彼自身、監督志望の強い想いを語っていたし、 遺作の「ジャイアンツ」撮影中、 暇さえあれば自分で8ミリ映写機を廻していた。 この行為が、監督、ジョン・スティーブンスとの確執の ひとつの原因であると目されている。 それでは、ジミーはいつごろ俳優に見切りをつけ 監督に転身し、どんな作品を作ったであろうか? 「ジャイアンツ」出演時の彼は弱冠24歳なのだが、 恐らく、30才前には監督の椅子に座っていたと思われる。 何故ならば、俳優として彼ほど、 監督にとって扱いにくい男はいなかったと思うし、 ジミー自身、俳優でいる限りは 良い映画を作ることに限界を感じていたに違いない。 監督こそ、映画の指揮者、 思うがままに映画を作りたい。 それがジミーの願望だった。 ただ、どんな作品を手掛けただろうか? これだけは推測するのも困難だ、 ただ、直感的に一筋縄で分かるような映画は作らなかっただろう。 だから、興行的には不成功に終わり 壁にぶち当たったのではないかと思われる。 何しろ、破天荒に変わった男であったから。 ジミーは監督にとって扱いにくい男。 このことを、もう少し丁寧に語ると、 彼ほどの若さで演技について一家言持っていた男は居なかったし、 彼ほど役柄に徹しきる俳優は居なかった。 デビュー作、「エデンの東」を取り仕切ったエリア・カザンのみ 辛うじてジミーを御せた監督である。 2作目、「理由なき反抗」のニコラス・レイは ジミーの好きに任せ、監督の責任を事実上放棄した。 その結果、この作品はファンが思うジミーらしさは出てはいるがものの 作品としては一流とは言えぬ代物となった。 三作目の「ジャイアンツ」の監督、ジョージ・スティーブンスは 事あるたびにジミーと衝突、 監督の権限で彼を力で抑え込んでしまった。 その為、衝突が深まるにつれて 特に映画の後半部分でその後遺症がもろに露呈した。 時代の風雲児、ジェット・リンクに扮したジミー、 巨万の富を築いたあとの老け役からは やる気のなさがまざまざと漂ってくる。 ジミーほど短期間で、又、その若さで 卓越した演技力を見せつけた俳優は他に居ない。 彼は1955年9月30日に 自らハンドルを握るポルシェの交通事故により 24歳の若さでこの世を去ってしまう。 ジミーの残した作品と封切り年は次の通りだ。 エデンの東 1955年 理由なき反抗 1955年 ジャイアンツ 1956年 ジミーは生前、完成品として 自らの作品を見られたのは「エデンの東」のみ、 あとの2作品は死後、公開されたものだ。 ジェームス・ディーンがハリウッドのスタジオで 映画に携わったのは僅か1年と数カ月でしかなかった。 ジミーがデビューして相前後、 魅力溢れる個性派俳優が次々と銀幕に姿を現した。 しかしながら、ジミーと比べると その輝きの色は褪せてしまう。 例え、ジミーの輝きが一瞬だったとはいえ・・・・ いや、一瞬だったからこそ、その輝きが眩しかったのか。 明日のブログでは、 煌めく個性派俳優とジミーとを比べてみよう。
by shige_keura
| 2011-10-27 09:00
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