安倍川餅については次のような伝承がある。
江戸時代の初め、徳川家康が 駿河国、安倍川の畔の、とある茶店に立ち寄った。 そのとき、茶店の主が、 黄粉を安倍川上流で採れていた砂金に見立て、 つきたての餅にまぶし、 「安倍川の金な粉餅」として献上した。 家康は、その味と機転に大層喜び、 その後は街道筋の名物となって 駿河の「安倍川餅」の名前は全国に広がっていった。 その広がりの名残の場所が 現在でも大田区、大森近くに残っている。 京浜急行、平和島から程近くに 美原通り(三原通り)と名付けられている通りがある。 道幅は狭いが人通りも多く、 昔ながらの佇まいを見せている商店街は 如何にも旧東海道の面影を今に伝えている。 三原通りの由来は、 旧大森村の小字、北原、中原、南原、 即ち三つの原を通っていることから名づけられたものだ。 中原と南原の丁度境の所に あべ川餅の老舗、「餅甚」がある。 この店の初代主は甚三郎、 享保元年(1715)、故郷の駿河の国から ひと旗挙げんものとお江戸に入り、 現在地の旧東海道沿いに小さな茶店を出した。 彼は安倍川餅の評判を試そうと 夏の土用の間のみ、暑さを癒すために 一皿の餅に渋茶を添えて出した所 これが大当たりとなり、四季を通じて供するようになった。 最初の屋号は、故郷の名前そのままに「駿河屋」だったが 八代目になって、主人の名前を冠して「餅甚」とし 商品名も「安倍川餅」ではなく「あべ川餅」とした。 以来、知る人ぞ知る、「名代の味」として 多くのお客が贔屓として通い、 最近ではテレビの「和風総本家」でも取り上げられた。 店内には、明治時代の土地の権利証、 漁師町、大森を偲ぶ船底の板を活用し、 屋号が彫り込まれている看板等が興味を引く。 肝心の「あべ川餅」だが、 上品な色合いと、まさに幼児の耳たぶを思わせる ふっくらと、吸いつきそうな肌触り。 黄粉と黒蜜、そして柔らかな餅、 口の中で絡み合って、なんとも具合が良い。 濃いめの煎茶に「あべ川餅」、 一時の旅の気分を味わった。
by shige_keura
| 2011-11-07 08:35
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