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Red Shoes Legend -Part 3-
私にとって、懐かしの麻布本村町、
その昔、1908年(明治41)、
正確な場所は分からぬが、ひとつの孤児院が出来て
18名の孤児が収容されていた。

この孤児院は、もともと東洋英和女学院生徒の
ボランティアが発展したものだった。

1908年(明治41)、孤児院は同じ麻布の永坂に引っ越し、
「永坂孤女院」の名前で薄幸な子供達の面倒を見た。
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2階建ての建物、1階は日曜学校、
2階が孤児たちの生活の場として供された。
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経営母体は東洋英和女学校、
責任者の名前を取って、"Carmen Hall”と通称呼ばれていた。

アメリカ人宣教師夫妻が帰国したのが1908年だから
きみちゃんは「永坂孤女院」の設立当初から預けられたことになる。

恐らく、孤女院関係者は一生懸命
きみちゃんが元気になるように励ましたに違いない。

しかしながら、きみちゃんの病状は深刻の度合いを深め、
1912年(明治44)、9歳2カ月の短い生涯を終えた。

従って、きみちゃんは異人さんに連れられて
アメリカに行ったことはなかったのである。

それなのに、何故、あのような歌詞が出来たのだろうか?






樺太に移り住んだきみちゃんの母、かよは
娘を宣教師に預けた事を後悔しない日は無かった。

母、かよは、今となっては遠い異国に行ったと思っている
娘、きみちゃんのことが不憫で堪らなかった。

その後、鈴木夫妻(きみちゃんの母と夫)は
北海道に戻り小樽に生活の場を見つけた。

その地で、夫は地方新聞の記者として働き始めた。

このとき、彼の同僚に野口雨情が居たのだ。

彼等は夫婦同士で非常に仲が良く
一軒家で共同生活を送るほどたった。

この時代に、かよの口から
きみちゃんの境遇が雨情に伝わった。

雨情自身、生後7日で長女を失うと言う
悲痛な経験をしていた。

彼の、これまた有名な童謡、「シャボン玉」
歌詞の2番は哀切な言葉が詰まっている。

「シャボン玉消えた,飛ばずに消えた
 生まれてすぐに,こわれて消えた」

何という悲しみに満ち溢れた詩であることか。

1921年(大正10)、雑誌、「小学女生」に
野口雨情の「赤い靴」の詩が掲載され、
翌年、本居長世の作曲によって、
誰でもが知る童謡が誕生したのだ。
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しかし、何故、”赤い”靴なのだろうか??

以下、次回最終回に続く。
by shige_keura | 2012-02-25 09:13 | その他
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