家には私の記憶を遡ると
気がついた時から仏像が有る。 「気がついた時から・・・・」、 少しというか、大分変な表現だな、これは。 言いたいことは、頭の中に記憶が発生した時から つまり、随分、昔々から仏像が鎮座ましましている。 幼稚園から小学校低学年を過ごした逗子、 以降、麻布、葉山、いつの時も 仏像は床の間の上に守り神の様に座っていた。 結婚後、海外生活16年を経て 仏像は我が家に帰ってきた。 ただ、日本間も床の間も無い現在、 仏像はリビングのフロアの上で、 偶に孫に頭をなでられる存在となっている。 私も小さい頃そうであったように 孫にとっては仏像の螺髪(らほつ)、 螺旋状でブツブツの髪の毛の感触が 珍しいと見える。 仏像は左手のひらに薬壺を載せているので これは薬師如来に違いない。 しかし、右手の所作が非常に珍しく 何とも優雅なムードを醸し出し、 得も言われぬ両手のバランスがとても良い。 仏像が我が家にある由来は知らない。 相当古いものに違いないのは推察がつく。 何故なら、60年以上も前から 仏像の背中の左側に穴があいているのだから。 祖父に仏像の由来を聞いておくべきであった。 表面の塗装が大分剥がれてきた顔をしげしげと見る。 角度によって、優しさ、哀しさ、諦め、 その表情は色々と変化する。 変化しないもの、 それはどの角度から見ても 不釣り合いなぐらい大きな耳のサイズである。 どうして、仏像の耳は大きいか? その理由が、最近になって分かった。 家内が最近出席した 大田観光協会主催の「仏像の見方」講座。 初心者向けに分かりやすい説明が行われ、 その中で仏像の耳の紹介が有った。 仏像の耳が大きいのは 衆生の声を聞き洩らすことなく聞きとる為だ。 それでも聞き取りにくい時は 手のひらを耳にかざして 漏れなく聞き取ろうとする。 即ち、仏像の耳の大きさは ほぼ、手の大きさと同じサイズで作られている。 従って、もしも大昔の仏像が 損傷激しい状態で見つかった場合でも 仮に、一方の手か、耳が残っていれば 少なくとも手と耳の大きさは推定できるのである。 「なるほど、なるほど」 仏像の見方をあらかじめ頭に入れると 更に仏像への興味が沸いてくるだろう。 人間の場合はどうか? 耳の大きな人が全て聞き上手か? それは、なんともコメントできない。
by shige_keura
| 2012-01-30 10:37
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