多摩川左岸にあったジャイアンツ球場、
そこは幾多の名選手が汗水たらした聖地だった。 第一次長嶋監督時代、 東映から移籍し、王選手と並んで打線を牽引した 張本選手もここで泥にまみれ優勝に貢献した。 (巨人練習場で王選手と汗を流す張本選手) さて、張本選手は移籍前、 多摩川を挟み向こう岸、右岸にあった、 当時、東映フライヤーズの球場で練習に明け暮れていた。 (日本ハム時代の球場) 次なる”夢のあと”探検は フライヤーズ(のちの日本ハムファイターズ)球場建設前に 同じ場所に存在した、ある施設の痕跡を探ることである。 下の画像は、日本ハム球場(今は移転)と その附近の多摩川流域の地図である。 日本ハム球場と多摩川を挟んだ左側に かつてのジャイアンツ球場の輪郭が描かれている。 さて、次の画像は戦後、 アメリカ進駐軍が撮った同じ場所の航空写真だ。 写真は、この場所にサ―キット 或いはトラックの存在を物語っている。 この画像は今に残る 当時の施設一部の痕跡を伝えている。 一見、コンクリートの階段の様に見受けられるが これは、当時の観客席あとなのだ。 良く見れば、当時の観客席を固定していた 支柱のあとの穴が空いている。 ここで、或る時は3万人を超える観客が 目の前で繰り広げられる迫力あるイベントを 手に汗握って観戦していた。 そのイベントとは先の航空写真に 映し出されたサーキットを 轟音をたてて走行する自動車レースだったのである。 このサーキットの正式名称は「多摩川スピードウエー」 日本で初めて作られた常設のモータースポーツレース場なのだ。 日本のモータースポーツに先鞭をつけたのが報知新聞、 大正12年(1923)設立された「日本自動車倶楽部」の スポンサーとなって国内普及に努めた。 その後、報知新聞は多摩川河川敷にあった オリンピア球場跡地に目を付け 東急電鉄を口説き落として 日本初の常設サーキットが誕生した。 時に昭和11年(1936)の春、新緑を迎えるころだった。 サーキットは1周が1,200メートル 直線が450m、幅は20m 立ち見を含め観客3万人収容することが出来たという。 (レース当日、最前列に日本髪姿の御婦人が観戦している) 「全日本自動車競技大会」が行われたのが6月7日、 メルセデス(独)、ハップモービル(米)、 カ―チス(英)等の海外勢力も参加していた。 (アメリカ製、ハップモービル) (英国製、インヴィクタ) 日本からは優勝候補の大本命として ダットサン、即ち日産がファクトリー参加していた。 レースは意外な結果となった。 更に、当日、恐らく当事者同士の会話はなかっただろうが、 後年、日本の自動車産業のみならず 日本の経済発展に多大な働きをした 二人の男が参加していた。 続きは明日、
by shige_keura
| 2012-04-16 17:01
| スポーツ
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