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ツワモノどもが夢のあと (5) -挫折を糧に栄光へ-
1936年6月7日、
「第一回全日本自動車競走大会」。

よもやの敗戦を喫した
日産ファクトリチームの一員として彼は居た。

名前は片山豊、技術者では無い彼が
どのような役回りでその場に居たのか? 
それは、はっきりしない。

恐らく、営業畑の一員として
広報、宣伝の担当者として
多摩川スピードウエーに胸躍らせて
レースを観戦していたに違いない。

レース前から、彼の頭の中には
日産車栄えある優勝のキャッチフレーズが浮かんでいたに違いない。

思っても見ない敗戦、
打ちひしがれてばかりいられない。

屈辱の敗戦から3か月後
日産は確勝を期して特別な車を仕立て上げてきた。

モデルはNL-75 Super Datsun Racer、
排気量750cc、DOHC、
スーパーチャージャーをわざわざ英国から取り寄せた。
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日産ワークス必勝の願いは
車両製作中の工場にしめ縄がかけられたことに表れていた。

当日は雪辱の相手、オオタ工業が棄権する中、
Super Datsun Racerがぶっちぎりでレースを制し
商工大臣賞の栄誉を受けた。
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日産優勝の記念撮影写真、
後方、左端に片山豊がメンバーの一員として連ねている。
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彼の耳にはダットサン・スポーツカーの爆音が
心地よく残ったに違いない。





片山豊は1909年、現在の静岡県、浜松市に生まれ、
湘南高校から慶応義塾を卒業後
1935年に日産に入社し、宣伝を担当した。

従って、豊の入社翌年に
記念すべき多摩川スピードウエーにて
レースが開催されたのだ。

その後、彼は自らの意志で
まだ、日本車の知名度が皆無のアメリカに渡り
とびこみでディ-ラーを訪問し
自社の車の販売努力を続けた。

米国日産初代社長となった彼は
やがて、「フェアレディZ」の父として
アメリカ中にその名前を轟かせていく。
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フェアレディZの販売台数は100万を超えた。

これは、ひとつのスポーツカーモデルとしては
破天荒な販売台数だった。

Z-car(ズィー・カー)は
まさに日本車躍進の象徴として
アメリカのモータファンからこよなく愛されていった。

その結果、1998年、
アメリカ自動車殿堂の一員として表彰を受けた。

               (2009年、ロサンジェルスでの「K’s Meeting」にて)
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今年、102歳を迎える片山氏は依然お元気で
浜松市のPR活動を行っている。

1936年の多摩川スピードウエーに話を戻すと、
奇しくも片山氏と同じ浜松市出身のスピード野郎が
同じレースに出場し辛酸をなめた。

彼もその挫折をバネに栄光の道を進み
日本だけでなく世界に羽ばたいていった。

続きは明日、
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by shige_keura | 2012-04-18 10:43 | スポーツ | Comments(0)
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