日産の名車、フェアレディZの父が
片山豊であることは周知の事実である。 しかし、名車誕生の陰に、もうひとりの父が居た事、 そして、彼が片山豊と深い因縁にあることは余り知られていない。 その男とは、多摩川スピードウエ―で行われた 第1回の大会でハンドルを握り アット言わせる優勝を飾った 太田祐雄の長男、祐一なおである。 彼は父の血を強く受け継いだ モータースポーツに命を掛けた男だった。 日中戦争の激化に伴い オオタ自動車工業はモータースポーツに専念できず 三井財閥に株式を売却し、 航空部品製造会社に事業を転換していった。 祐一は車への夢が立ち切れずに退社、 帝国自動車工業に入社、 「くろがね4輪」の車体設計を担当した。 1947年、祐一は独力で 「ワイドフィールド・モーターズ」を設立、 進駐軍兵士のスポーツカーのチューンアップ、車両改造、 更にトヨタ、ダットサン車のオープンカー架装を手掛けた。 ここで祐一は第1回大会のライバル、 日産の片山豊と再会する。 1952年、片山豊(当時、日産の宣伝課長)の依頼で 太田祐一はスポーツカーの車体デザインを手がけた。 それが、ダットサンスポーツDC3、 後のフェアレディの源流となった 美しいロードスターモデルだった。 1955年、祐一はワイドフィールド・モーターズを 日産専属の試作工場、アルファ・モーターズに改組、 ダットサンスポーツ1000を手掛けたあと、 フェアレディ1200のデザインを担当した。 (ダットサンスポーツ1000) (フェアレディ1200) 更に、1962年祐一は日産に乞われて入社、 プロトタイプの設計や試作を手掛け 同社の発展に貢献した。 最晩年は伊豆に隠棲し 仏像彫刻に専念しながら 日本のモータースポーツを静かに見つめていた。 祐一がこの世を去ったのが1998年 それは、あの多摩川スピードウエーの栄光の日々は 歴史の彼方に消え去ってしまった頃の事だった。 太田ファミリー、片山豊、本田宗一郎、弁二郎兄弟、 「ツワモノどもが夢のあと」、モータースポーツの聖地は 桜花が満開の中、ひっそりと静まりかえっていた。 「ツワモノどもが夢のあと」、参考資料・画像 ・Wikipedia 「多摩川スピードウエー」 ・国土地理院 ・Yomiuriinline サーキット徒然草 ・フェアレディZ ストーリー ・K’s Meeting Hamamatsu ・Wikipedia 「太田祐一」 ・その他
by shige_keura
| 2012-04-20 08:47
| スポーツ
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