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秋深し  -ひと文字違えば-
「秋深し」とくれば思い出すのは松尾芭蕉の俳句、
「秋深し 隣は何を する人ぞ」である。
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この句を詠んだ時、芭蕉はどのような状況にあったのだろうか?

彼がこの世を去ったのが元禄7年(1694)、10月12日、
上の句を詠んだのは9月28日、
即ち、死の2週間ほど前のものである。

このとき、芭蕉を励ますことを目的で句会が予定されたが
病床にあった芭蕉は出席が叶わず、
発句として上の俳句を弟子に託した。

結果として句会そのものは流れたのだが、
この時、芭蕉はこう詠んだ。

「秋深き 隣は何を する人ぞ」

「秋深し」ではなく、「秋深き」である。

芭蕉のこの時の胸中は、
「秋が深まっていき、床に臥せって静かにしていると
 自然と隣の人の生活音が聞こえてくる。
 今は何をしているのだろうか?」
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いつ、どこで、誰が、「秋深き」から
「秋深し」に変えてしまったのかは分からない。

ただ、「僅かひと文字、されどひと文字」、
随分と印象が異なって来る。

「秋深し」だと、傍観者的、軽い言葉に聞こえるが
「秋深き」だと当事者の実感がより強く迫ってくる。





「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」
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これは芭蕉が元禄7年(1694)10月8日に詠んだもの、
一般的に彼の辞世の句として知られている。

ここで注目したいのが
最初の「旅に病んで」の所だ。

これは5文字でなく6文字だ。

何故、芭蕉は辞世の句の最初を
わざわざ、6文字の字余りとしたのだろうか?

「旅に病んで」ではなく、
「旅に病み」の5文字で代用できるじゃないか?

「旅に病み 夢は枯野を かけめぐる」となる。

これまた、僅かな違いで印象が随分と違ってくる。

「旅に病み」の場合は、軽い印象、
つまり、旅先でちょっとした病を患っている印象だ。

一方の「旅に病んで」となると
物事の深刻性、相当な病に侵されてるように思われる。
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だから、字余りとはいえ、
ここは、どうしても「旅に病んで」でなくてはいけないのだ。

さて、本当なのか?確かめようもないが、
芭蕉は辞世の句を詠んだ翌日の10月9日、
もうひとつの作品を残しているとの説もある。

「清滝や 波に散り込む 青松葉」

辞世の句と比べ何と瑞々しい事か、
若さあふれる生命力すら感じてしまう。

1日の間に、この変貌、
芭蕉は、すべてをやりとげて思い残すことは無いとの
潔い心持に到達したのだろうか。
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by shige_keura | 2012-11-12 08:58 | その他 | Comments(0)
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