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緊迫の春 -風雲急を告げる本門寺-
江戸から東京と名前が変わったのが1868年、
以来、150年近くの歴史を振り返ると
様々な出来事が首都を駆け巡った。

その中のビッグスリーを選んでみると、
新しいもので第2次大戦の爆撃被害、
続いては大正時代の関東大震災となる。

この二つの自然・人的大災害は
首都に壊滅的打撃をもたらせた。

それに対し、三番目の出来事は
首都に大打撃を与える寸前で救われた。

その出来事とは江戸から明治に代わる時、
即ち、明治維新間際で起こった
新政府軍による江戸(東京)総攻撃計画だった。

慶応4年(1868年)3月15日に予定されていた江戸城総攻撃は
前日の3月14日に、まさに寸前で回避された。

ただ、ここに登場する二人の男が居なければ
総攻撃の火ぶたは切られ
都の象徴、江戸城は炎上したことだろう。

その二人の男とは
ご存知、西郷隆盛と勝海舟だ。





今年の冬は長く厳しい、
とは言え、池上周辺の梅は満開を迎えた。
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あの時は既に梅は散っていただろうか?
それとも未だ今年のようにふくよかな香りを漂わせていただろうか?
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しかし、人々は梅を愛でる余裕は無かった。

あの時とは慶応4年(1868)3月12日
西郷隆盛を参謀とした新政府軍(東征軍)が
本営と定めた池上・本門寺に入ってきた。

(池上本門寺総門を入ったところ、
        正面の坂の左手前に西郷の宿舎の寺がある)
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周辺はものものしい雰囲気で包まれたであろう。
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西郷隆盛が宿舎としたのが
本門寺総門手前の左側にある理境院だった。
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彼が駿府を出発したのが3月9-10日の事だから
足取りは極めて早い。

そこに新政府軍の勢い、血気盛んな様子が窺える。

ここで、駿府で起きた出来事を振り返ってみよう。

3月6日、新政府軍は駿府にて、江戸城総攻撃を決定した。

一方江戸の動きを見てみると、
そのとき、幕府軍の軍事総裁を拝命し
全権を任されていたのが勝海舟だった。

彼は事態の鎮静化を模索し、
右腕、山岡鉄舟を使者として駿府に送った。

3月9日、駿府にて西郷隆盛と山岡鉄舟会談が行われた。

しかしながら、事は勝海舟の目論見通りには運ばず、
鉄舟は西郷から江戸城総攻撃回避6条件を突き付けられ
何ら得る所なく江戸に立ち返った。
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こうして、3月12日新政府軍は池上・本門寺に入った。

江戸城総攻撃まで、あと僅か3日、
15日の東征大総督・有栖川宮の命を待つばかりだった。

この時点では、江戸城が焼け落ち
江戸の町が火の海に包まれることは避けられなかった。

以下は次のブログに続く。
by shige_keura | 2013-03-06 09:11 | その他
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