3月12日池上本門寺に入った西郷隆盛、
以降、彼の行動は積極果敢、 先ずは幕府軍事総裁・勝海舟に対し翌13日の会談を要請した。 つづいて、西郷の取った行動は 意外にも近郊、大森村の有力者を集めた事だった。 何故、このような行動をとったのであろうか? 西郷は新政府軍の今後を考えると 今の財政状況では立ち行かぬ危険性を感じていた。 そこで、彼が目をつけたのが 当時、利益性が非常に高い海苔業だった。 (江戸時代の大森沖海苔漁) 大森と言えば当時は全国に聞こえた海苔の産地、 海苔は彼等にとって虎の子であり 利益を生み出す海苔漁場の拡張が最大の課題だった。 ところが、海苔業は幕府の免許制となっており 漁民の裁量で漁場を作ることは認められなかった。 そこに着目した西郷は 町民に義援金を申し出、その見返りとして 新たな漁場を認めることを約束した。 ここで江戸時代後半と明治初期の海苔漁場の推移を見てみよう。 (東京湾を埋め尽くす海苔漁場) 文化10年(1813) 明治13年(1880) 大森地区 159,219坪 231,170坪 羽田地区 0 89,000坪 (陸の海苔干場) これをみて一目瞭然なことは 明治に入って大森地区の漁場が急増したことと 新たに羽田地区に漁場が設けられたことだ。 当時、羽田地区の人たちは海苔業に手を出したくても 大森地区の反対に会って商売に手を出すことは叶わなかった。 その辺の事情を察知した西郷は 大森と恐らく羽田からも義援金を得たのだろう。 (昭和の東京湾海苔漁場、右側に官軍場の名前がある) 大森地区に限れば、その時獲得した漁場は あらたに「官軍場」と名付けられ 大森の海苔業の更なる発展に繋がっていった。 このとき大森地区が差し出した義援金は何と5,000両、 当時の海苔業が如何に富を生み出すものかを物語っている。 ただ、ここで注目すべきは 元来、海苔商売の免許は幕府の許可制によるものである。 にもかかわらず、この時点では新政府軍の一存で事が進められた。 即ち、徳川幕府は完全に瓦解していた事を意味している。 さてさて、3月13日の西郷・勝会談、 その成り行きや如何に? その模様は次のブログで続けたい。
by shige_keura
| 2013-03-07 08:30
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