サンフランシスコ、3月17日(日)、
夕刻より第3回WBC準決勝が 日本とプエルトリコの間で行われた。 日本では試合開始に先立つこと 1時間も前からテレビ中継が始まった。 今や遅し、テレビの前に陣取ったことは言うまでも無い。 結果について、言いたいところは沢山あるが 私は素直にプエルトリコチームの素晴らしさに敬意を表したい。 今回は試合そのものよりも 私にとって印象的だったことを幾つか紹介したい。 決勝戦の舞台はサンフランシスコの「AT&Tパーク」 2年連続ワールドシリーズチャンピオン・ジャイアンツの本拠地、 これほどWBC決勝戦の舞台として相応しい球場はない。 是非、テレビで紹介してほしかったのは この球場は日系企業(鹿島建設)が初めて手掛けたものであり、 しかも地方自治体の援助なしで完成させた事である。 時は2000年、日本が世界に君臨していた頃だ。 さて、ここからはアメリカ得意の憎い演出が始まる。 1,2大会優勝監督による始球式、 登場するのは勿論、王貞治さんと原辰徳さんだ。 そのとき、ひとりの年老いた黒人が 二人に始球式用の白球を手渡した。 なんと、オルランド・セぺタではないか! プエルトリコの英雄、「プエルトリコのベーブルース」と言われた男、 いやいや、日本ープエルトリコ戦をまえにして 「やってくれるなー、全く!」 オルランド・セぺタ程、波乱万丈の生涯を送った男も無いだろう。 1937生まれのセぺタは1958年、 サンフランシスコ・ジャイアンツ入団デビュー その年の新人王を獲得した。 その頃の、ジャイアンツ、 史上最高の外野手とされたウィリー・メイズ、 外野後方の湾の名前にもなっているウィリー・マッコビー、 そして、セぺタがゴールデン・トリオとして牽引した。 (ウィリー・メイズ) (ウィリー・マッコビー) MVP1回、打点王3回、輝かしい成績を残し 1974年、オルランド・セぺタは選手生活を終えた。 翌年、彼はマリファナ密輸に関与したとして逮捕、 有罪5年の判決を受けた。 彼は晩年怪我に悩まされマリファナを常用していたのだが、 そのことが麻薬取引疑惑に繋がっていった。 幸いにして裁判の不透明性が指摘、 セぺタはわずか10カ月で仮出所した。 しかし、彼の名声は地に落ち、 母国プエルトリコの失望は大きかった。 苦難の毎日を送る彼に救いの手を差し伸べたのが 古巣、ジャイアンツ、 広報担当として迎えセぺタも誠心誠意で仕事に当たった。 「薬物乱用防止キャンペーン」の旗振り、 エイズ患者のスポーツ大会への参加許可、 各地の刑務所訪問、恵まれぬ人たちの為に奔走した。 セぺタの心のこもった行動が認められ 1993年プエルトリコの野球殿堂入りが決定、 1999年にMLBの野球殿堂に「青少年の範」として推薦された。 更に、同年、ジャイアンツは彼の背番号30を永久欠番とし、 2000年にはニューヨ-ク州から「勝利の人生賞」が送られた。 波乱万丈の男、オルランド・セぺタ、 自分の努力で現在を掴み取った男が 晴れのWBCの舞台に戻ってきた。 心からオメデトウと言いたい。 さて、続く、両国国歌に続くセレモニー、 私にとっては大きな驚きと喜びがあった。 明日に続く。
by shige_keura
| 2013-03-19 22:40
| スポーツ
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