甲子園で数々の名勝負を裁いた永野元玄さんの言葉だ。
「一番速かったのは、何と云っても江川ですわ、 それも2年生の時が一番速かった。 彼の速球はホップするので高めの見極めが大変、 そのため、いつもよりコールが一拍遅れていましたね」 (作新高校時代の江川卓) ならば、永野さんが1961年の優勝投手、 尾崎行雄をジャッジしたならばどう言われただろうか? 甲子園を沸かせ、プロ野球界に震撼を与えた 尾崎行雄さんが6月13日亡くなられた 享年、68歳、慎んで御冥福をお祈りします。 先月末に体調不良を覚え今月7日入院 驚くべき早さで進行する肺癌による急逝、 いくらボールが速いと言っても、 こんな所にまで彼の特徴が表れるとは・・・・、 短いプロ野球人生と共に切ない想いがしている。 1961年夏の甲子園、 主役は間違いなくこの二人だった。 (法政二高当時の柴田勲) かたや、前年夏の覇者、法政二高のエース、柴田勲、 こなた、雪辱を期す浪商の2年生エース、尾崎行雄。 (浪商高校時代の尾崎行雄) 両校行き詰る熱戦は延長戦にもつれ込み 最終的に4-2で浪商に凱歌があがった。 同年秋、柴田は読売ジャイアンツへ入団、 尾崎も高校2年で中退し東映フライヤ―ズに入団した。 翌年の二人のデビュー、 これほど明暗を分けたものも少ないだろう。 野球に詳しい方でも 尾崎(パリ―グ・東映)と柴田(セ・リーグ・巨人)が 同じ日にデビューしたことは忘れておられるのではないだろうか。 1962年4月8日、セパ同時開幕第2戦、 4万人を超える観客が後楽園で見詰めた巨人・阪神戦、 オープン戦の好成績を引っ提げて柴田は登板した。 しかしながら、1回並木、藤本に連続ホームラン、 序盤であえなくノックアウトされた柴田は 投手失格の烙印を押され野手へと転向していった。 このことが後に赤い手袋の異名で走りまくる 俊足のスイッチ・ヒッター柴田を生みだした。 後年、王貞治はこう言っている。 「柴田はいいよな、ノックアウトって言っても開幕第2戦で先発だよ、 俺なんか、公式戦に投げさせて貰えなかったんだぜ」 同日、場所は新装なった神宮球場、 ホームチーム、東映フライや―ズは ミサイル打戦、強打の大毎を迎え撃った。 さー、ここで質問です。 この試合に詰めかけた観客数はどのぐらいだったのでしょうか? プロ野球の看板ゲーム・後楽園の巨人・阪神戦の観客が4万人、 ならば、神宮の東映対大毎日の観客数は? 以下、次のブログに続く。
by shige_keura
| 2013-06-17 20:24
| スポーツ
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