私が金沢に暮らしたのが1997年から6年間なのだが
移り住む2年前に金沢城址内にあった金沢大学が郊外に移転した。 (昔からある金沢城・石川門) 勉学を前田利家所縁の城址でいそしむ、 こんな素晴らしい事はない。 何で、郊外に移転したのかと不思議に思った。 その後、1999年、堀跡の市民のテニスコートが撤去、 相前後して、金沢城復元工事が始まると知った時 なんと、馬鹿な事にエネルギーを費やすのかと落胆した。 何故なら、全国の至る所で見られる城の復元は およそ、その出来栄えは安っぽく、 往時のものとは比べるべくもなかったからだ。 これならば、僅かな城壁、苔むした天守閣跡から 想像力を膨らませ、当時を夢見た方が面白いと思った。 ところが、ところがである。 2001年、第一期工事が完成した「五十軒長屋」「菱矢倉」を見て、 石川県、金沢市を見くびっていたことに気がついた。 (復元なった「五十軒長屋」) 建築資材も出来る限り当時の物を使うばかりか 工法までもが昔の手法を取り入れて復元した。 流石、文化を大切にした加賀百万石の血筋、 昔からのもの作りの伝統・精神は 今も脈々と受け継がれ、常に本物を目指している。 2011年に完成した「河北門」の豪壮たる門構えを見て 金沢市民の復元工事に掛ける 並々ならぬ熱情を感じ取った。 その想いが強くなったのが今回見学した「玉泉院丸庭園」である。 玉泉丸とは二代藩主・利長の正室であり 彼女の逝去後、寛永11年(1634)、 三代藩主・利常が京都の庭師を呼んで造らせたもので、 このころより「玉泉院丸」と呼ばれるようになった。 その後、五代・綱紀の時代、元禄元年(1688)に 千宗室の手によって、更に庭としての風格が増していった。 大正時期に入ると、この場所に馬場が設けられたこともあり、 昭和30年(1955)ごろには県スポーツセンターが築かれた。 しかし平成21(2009)県は玉泉院丸跡調査委員会を設置、 発掘調査に加えて復元に乗り出し 本年の初頭に完成したのだ。 金沢で誰もが知っている庭園は「兼六園」、 ここは、藩主が客人の接待等餐応の場として用いられたのに対し、 「玉泉院丸」は藩主の内庭として主に使われたと伝えられている。 従って、スケールは「兼六園」の比ではないが 藩主が一人で散策するのに適しているかのよう に変化に富んで立体的である。 中央の池の表面から最上段の石垣までの高低差22メートル、 立体的な池泉回遊式の大名庭園であり 変化に富んだ石垣を重ね合わせて 上部には滝を組み込むと言った独創性が際立つものだ。 石段を下りて池の周りをゆるゆると廻り 「玉泉庵」で一休み、 一時の藩主気分を味わった。
by shige_keura
| 2015-06-30 21:31
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