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大女優についての「ちょっとした」考察
11月25日、新聞紙上に一斉に報じられたのが
「伝説の大女優・原節子逝く」だった。
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彼女は「東京物語」「麦秋」「晩秋」等で
日本を代表する女優となっていった。

ただ、原節子が大女優としての地位を築くのは、
映画界からの早すぎる引退、謎に包まれた私生活等、
その神秘的な側面が後押ししたといって良いと思う。

謎のベールに覆われた大女優、
その意味では西のグレタ・ガルボと並び称される存在だった。

グレタ・ガルボ(1905~1990)はスウェーデン生れ、
トーキー映画初期のハリウッドを代表する女優である。
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彼女は1924年本国で女優としてのデビューを飾ったが、
それを目にとめたハリウッド大手、MGMの誘いでアメリカに渡った。

1926年、第3作目「肉体の悪魔」で
ガルボの名前は全米中に知られMGMの看板スターとなっていった。

「ガルボが話す!」。

これは彼女が1930年に初めて出演したトーキー映画、
「アンナ・クリスティ」の宣伝文句であり、彼女は全米を代表する女優となった。

ところが1941年、彼女35歳の円熟を迎えた時、
突如、映画界から引退した。

以降、多くのファンからの復帰を望む声にも耳を貸さず
二度とスクリーンに顔を見せることはなかった。

彼女はこの世を去る1990年までのほぼ半世紀の間、結婚もせず、
公の場所にはほとんど姿を見せなかったと言われているが、
実際は少し違っているようだ。

ガルボは1951年アメリカの市民権を得て
マンハッタンで独り暮らしをしていく。

その間、例えば1963年には
ホワイトハウス公式晩餐会の招待に応じ出席した。

その時の印象をケネディ元大統領夫人である
ジャクリーンは次のように話している。

「彼女はとても魅力的でユーモアに溢れる女性だったわ」。
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ガルボが世間に背を向けているとの噂は
マスコミが彼女に、ことさら神秘的なベールをまとわせようとした
意図的なものであったようである。

ただ確かなことはガルボ自身、
映画、映画界を好ましく思っていないことが
引退理由だったということである。

彼女は死ぬ4年前にスウェーデンの某伝記作家にこう語った。

「私はハリウッドに疲れてしまったの。
 仕事も好きになれなかったし撮影現場に行くのが辛かった。
 私は全く別の人生を送りたいと思っただけ」。





原節子の場合はグレタ・ガルボに比べると
人生における浮き沈みが更に大きかったようである。

1920年横浜に生まれた原節子(本名:会田昌江)、
生家は生糸の輸出を営む裕福な問屋だった。

最初の悲劇は1923年、関東大震災の際に
母が頭から油を被ったことにより精神を病んでいったことだ。

次の悲劇が1930年、世界大恐慌の影響で
生糸は大打撃を蒙り家業が傾いていったことである。

そのため、学校を中退し家計を助けるべく
叔父の映画監督、熊谷久虎を頼って映画女優を目指していった。
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1935年映画デビューするや
節子のエキゾチックな美貌が話題を呼び
1936年、大監督、山中貞雄の「河内山宗俊」に大抜擢された。

偶々、来日中のドイツ映画監督である
アーノルド・ファンクの目に留まり
日・独・伊合作「新しい土」に出演し、
世界一周キャンペーにも参加した。

このころから彼女は戦争のプロパガンダとも言われる
国策戦争映画(「ハワイ・マレー沖海戦」、「決戦の大空に」等)に
積極的に出演していくようになった。
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このことが後年、彼女自身に
自分の喉に突き刺さった骨のような痛みを与えていく。
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終戦後、彼女は一族郎党を支えるために
資生堂のイメージガールとしての仕事をこなす一方、
積極的に映画出演をしていかざるを得なかった。
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1946年から1950年までの5年間、
彼女の映画出演は実に26作品にも及んだ。

エネルギーを消耗し疲れ果てた彼女に
次の悲劇が襲ったのが1953年、
撮影中に目の前で兄が列車にはねられ死亡してしまったことだ。

1963年慕っていた名匠・小津安二郎が
60歳にしてこの世を去ったのが決定的な引き金になったのか、
原節子は映画界から引退したばかりか
公の場には一切姿を見せなくなった。

時に43歳の時、ガルボ35歳と比べ
8年遅いとはいえ早すぎる引退だった。

原節子が演技的に上手い女優なのかどうか?
私には判定できない。

しかし、「東京物語」をはじめとする
出演映画の彼女の存在感は際立っている。

それが彼女の美しさだけから来ているとは思えないのだが、
それが何であるのか・・・・・・、
「孤高」と言う言葉が最も当てはまっているように感じる。

更に突き詰めていくと
彼女は映画あるいは映画人とは、自ら一線を隔していたのではないだろうか。

そのように考えなければ、引退後の
頑なに世間から自らを隔離した彼女を
理解できないことになってしまう。

原節子は映画と言うものをどのように考えていたのだろうか?
一度でもいいから聞いてみたかった。

最後に「青い山脈」(今井正監督)で原節子と共演した
杉葉子さんの今回の訃報に当たってのコメントを引用したい。
               (「青い山脈」の二人)
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「どんなスターでも自分の最も美しい角度があるのですが、
 原さんの場合は、どの角度から撮っても完璧な美しさでした。

 地方ロケの時には撮影スタッフ一同が大広間に集まり、
 食事をして賑やかに過ごしておりましたが
 原さんは決してご自分のお部屋から出てこられませんでした。
 若いスタッフが酒の勢いで“ちぇっ、気取っちゃって”と言うと
 池部良さんが“そんなこと言うなよ”とたしなめておられました。

 私の俳優生活中、数本の映画にご一緒させていただいて、
 人間としても俳優としても心から尊敬しお慕いしている方です」。
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by shige_keura | 2015-12-30 16:57 | | Comments(0)
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