正月三が日、風物詩の一つが箱根駅伝である。
本年、迎えた第92回大会は 青山学院大学が2年連続で圧倒的な強さを見せつけて優勝した。 この箱根駅伝の中で、毎回話題を呼ぶのが箱根の山の上り下り、 この難所に各大学はスペシャリストを配して万全を期している。 しかし、「天下の嶮」とまで言われる急峻の山道を、 何故、よりによって駅伝のコースに取り入れたのだろうか? 何か特別な事情があるのだろうか? 箱根駅伝の歴史を辿ると、その理由が浮かび上がってくる。 日本で最初の駅伝が行われたのが大正6年(1917)、 「東京奠都50年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」だった。 コースは京都・三条大橋を基点にゴールが東京の上野・不忍池まで、 東西対抗で3日間、昼夜をかけて、たすきをつないだ駅伝だった。 スケール感に溢れたこの駅伝に出場した選手の中に金栗四三氏がいた。 彼は後年、日本のマラソンの父と言われるように 長距離陸上界の先駆者で明治45年(1912)に ストックホルムで行われたオリンピックにマラソン代表で出場した。 日本最初の駅伝に出場した金栗氏は 駅伝こそが多くの長距離ランナーの育成に最適であると判断し、 そこから箱根駅伝開催実現に向かって踏み出していく。 それでは、コースの中に高低差が大きく過酷な 箱根の上り下りがどうして取り入れたのだろうか? その背景には金栗氏が考えていた「アメリカ大陸横断駅伝」という 途方もないスケールを持ったレースがあった。 コースはサンフランシスコを出発し 灼熱のアリゾナ砂漠を横断、 次に目の前に立ちはだかるロッキー山脈を越えて ニューヨークを目指すものだった。 「箱根駅伝」は「アメリカ大陸横断駅伝」の選考会の意味合いで 実現に向かって動き始めた。 駅伝のコースは幾つか検討されたが 最終的には箱根の山をロッキーに見立て 東海道を走る抜く現在のコースが選ばれた。 第1回箱根駅伝が行われたのが 大正9年(1920)、2月14日・15日。 参加校は東京高等師範学校(現・筑波大)、明治大学、 早稲田大学、慶應義塾大学の4校、 ゴール手前の銀座4丁目で東京高等師範が明治を抜いて逆転優勝した。 (第1回大会優勝・東京高等師範学校) 当時は現代と違って、 いたってのどかな時代であることを箱根駅伝は伝えている。 東京から箱根芦ノ湖まで 鶴見、戸塚、平塚、小田原の4中継地点があるが、 そこを通りさえすればどのような道を辿っても参加校の自由となっていた。 今では、考えられないことだが、 各校それぞれにルート戦術作戦の検討、 考えようによっては面白い企画だと思う。 壮大な「アメリカ大陸横断駅伝」は 残念ながら実施できずに終わったが、 「箱根駅伝」は年を重ねるごとに人気を呼び、 今やお正月に欠かせぬ行事となっている。 最後に、箱根駅伝のコースにまつわる意外な盲点を紹介しよう。 駅伝コースは往路5区、復路5区、 出発点(ゴール)・読売新聞社前~芦ノ湖往路ゴール・復路出発なので 行も帰りも同じコースを走るものだと思っていた。 ところが実際にはそうではない。 第1区(スタート)が21.3キロに対し、 第10区(最終)が23.0キロと 1.7キロも第10区の距離が長い。 何故かと言うと、復路では往路で通らなかった 京橋から東海道の基点である日本橋へ 敬意を表するために設定されたと言う。 東海道を走り抜ける箱根マラソン 基点の日本橋に敬意を表するのは 極めて当然のことである。 現在のスタート、ゴール共にスポンサーの読売新聞社前だが、 ここは、大英断でスタート・ゴール地点共に 日本橋に出来れば理想的なのだが。 そのときには、これ以上邪魔なものはない、 頭上の首都高速が取り払われることを願う。
by shige_keura
| 2016-01-06 08:57
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