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房総は春近し -地球をひとまわり―
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               (旧宅内にある伊能忠敬像)
ここは佐原の水郷地帯、
運河脇にあるのが伊能忠敬の旧宅である。
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伊能忠敬は日本を代表する測量家として名高いが
商人の才能も一流だった。
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伊能忠敬は江戸時代の中ごろ(1745年)
千葉県の九十九里浜に生まれ
17歳の時にこの地の酒造家であった
伊能家に婿養子に入り50歳までここに暮らした。

彼が伊能を名乗ったころ、
家の商売は危機的状況にあった。

忠敬は商売立て直しのために徹底的な倹約を進め、
その一方では本業以外に江戸に薪問屋を設けたり
米穀取引の仲買商売を行った。

その結果、29歳の時には
伊能家の収益は351両(約3,500万円)にまで回復した。

又、28歳の時に起きた「天明の大飢饉」の際には
私財を投げうって地域住民の救済に当たり
村では餓えで命を落とす人は出なかったという。

家の商売は彼の人徳と商才によって繁盛し
48歳の時の収益は1,264両(約1.3億円)にまで達した。
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忠敬はその頃より独学で暦学に打ち込み
49歳で家業のすべてを長男に託して隠居した。

隠居と言ってものんびりすることが目的ではなく
ひとえに暦学への探求をしたいからだった。







忠敬は50歳の時に、本格的に暦学を勉強するために
江戸の深川・富岡八幡宮そばに住居を構えた。
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暦学をより専門的に学ぶため、
当時の天文学第一人者であり
彼より20歳も若い高橋至時(よしとき)に教えを乞い、
自宅を本格的な天文観測所に改装して学問に没頭した。

高橋至時は、そのころ、寛政暦を完成させてはいたが
地球の正確な大きさが分からないことに不満を抱いていた。

そんなある日、忠敬はユニークな提案をして至時を驚かせた。

彼の提案は次の通りだ。

「北極星の高さを二つの地点で観測し
 見上げる角度を比較することで緯度の差が分かる。
 
 その二地点の距離を把握できれば
 地球は球体なので外周が割り出せる。

 そして二地点が離れていればいるほど誤差が少なくなるので、
 江戸と蝦夷の距離を測ることが最も望ましい」。

しかし、江戸時代の蝦夷地方は
幕府の許可が無ければ足を入れることが出来ない土地だった。

そこで至時が考えた表向きの目的が「地図制作」だった。

幕府としても国防のために正確な地図が必要であるので
彼らの計画を許可したのである。

従って、「暦制作」が真の目的であり
「地図制作」は幕府の許可を得るための口実だったのである。

このとき、幕府は許可を与えたものの
財政的な援助は全くなかったので
伊能家の資産3万両(30億円)に頼らねばならなかった。

伊能忠敬が一行8名を引き連れ
蝦夷へ旅立ったのが1800年4月19日、彼が55歳の時だった。

彼は旅立ちに際して歩幅が70センチを維持して歩く訓練を施し、
数人が歩いて平均値を出して計測していった。

しかし、この時彼らはこの調査が15年間、
合計10回の旅行にまで及ぶことは夢にも思ってはいなかったであろう。

伊能忠敬の精力的な測量調査は以下のとおりである。

尚、忠敬は測量調査出発の際は毎回、
富岡八幡宮に旅の無事と成功を祈願して旅に出た。

現在、八幡宮の境内には測量200年を記念して、
彼が力強く測量調査で旅をしている石像と
この地点を示す三等三角点のモニュメントが設置されている。

第1回 1800年~      蝦夷太平洋岸
      1日平均40キロの距離を歩き、蝦夷滞在117日間、
      10月下旬180日ぶり に江戸にもどる。

第2回 1801年~      伊豆・東日本太平洋側
      歩測は第1回限り、第2回からは縄を使って距離を調べた。

第3回 1802年~      東北・日本海側
      幕府から今回より財政的な援助が行われた。

第4回 1803年~      東海・北陸
      加賀藩の秘密主義で調査は難儀を極めた。

第5回 1805年~1806年 近畿・中国 
      伊能忠敬、旅の途中でマラリアを発症、
      1年9か月に及ぶ調査となった。 

第6回 1808年~       四国
      瀬戸内海の島々も詳細に調査
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第7回 1809年~1811年 九州前半
     体力が衰える中過酷な調査となった。
     天草が島が多いことで1年9か月を要した。

第8回 1811年~1814年 九州後半
      幕府が薩摩藩の実態を測量を通じて知ろうとしたため
     913日間に及ぶ長期調査旅行となった。
     屋久島、種子島にも訪れた。
     江戸にもとったとき長男の病死を知る。
     忠敬自身の長期調査は最後となった。
     この調査をまとめているとき間宮林蔵が訪れ、
     伊能忠敬に測量技術の教えを乞う。

第9回 1815年        伊豆諸島 (弟子に託し忠敬は江戸にとどまる)

第10回 1815年       江戸府内

1818年伊能忠敬は71歳でこの世を去るが、
15年かけて歩いた距離は4万キロ、
ちょうど地球を一周したことになる。

忠敬が死去してから3年後の1821年、
江戸城の大広間で日本最初の実測地図
実に225枚に渡る「大日本沿海輿地地図」が紹介された。
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その後、1861年に英国の測量船が
日本沿岸を測量しようとしたとき、伊能地図を見て仰天し、
いまさら測量の必要はないと引き返した。

それほど、伊能地図は正確に出来ていたのだった。

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               (伊能忠敬の墓、左の灯籠の向こうが高橋至時の墓
                その左にあるのが、何故か幡随院長兵衛夫妻の墓)
ここは現在の台東区・東上野にある源空寺、
ここに忠敬の遺言に従って師である高橋至時の隣に葬られている。
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墓碑の裏には漢文で詳細な記録が刻み込まれているが、
中でも興味を引くのは次の趣旨の一文である。
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「忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に出して出発した」。

この一文は富岡八幡宮の彼の石像、
目を見開き、力強い伊能忠敬の雄姿をまさに言い表しているようだ。
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当時の寿命が60歳、
50歳を過ぎて地球をひとまわり歩いた男、
伊能忠敬の情熱には敬服するほかはない。
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by shige_keura | 2016-02-17 16:11 | | Comments(0)
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