11月26日(土)、6泊7日の九州旅行を終えた2日後、
娘一家と日帰りで箱根に出かけた。 ひどく忙しい毎日となったのは 箱根に残るユニークな城跡を孫と共に見たいがためのものである。 全国に点在する城の数は 極めて大ざっぱに言って3万から4万と言われている。 日本人は城好きな人が多いが、 「姫路城」「熊本城」「松本城」等々、 かつての威風堂々とした姿を再現した城の人気度が高いようだ。 しかしながら、天守閣は勿論のこと 城そのものの姿は何処にも残されていない城跡から 往時の模様を偲ぶのもなかなか味のあるものだと思う。 奥深い箱根八里を国道一号線に沿って三島市に入って ほどなくの所にある「山中城跡」は 貴重な中世の山城の面影を今に伝えている。 「山中城」は戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に 小田原に本拠を構えた後北条氏が築城した。 その後、天正17年(1589)、豊臣秀吉との対立が深まりなか、 小田原攻めを防ぐために急遽、堀、出丸の整備を行った。 しかし、翌年、増築が未完成のまま4万の豊臣軍の総攻撃を受け、 わずか4千の北条軍の必死の抵抗もかいなく 城は半日で落城したと伝えられている。 「山中城」は典型的な山城、 箱根の急峻な地形を巧みに活用するなかで 北条氏の400年前の独特な城づくりが そのまま復元されているのは全国的にも極めて貴重なものである。 この城の珍しいところは普通の城にはつきものの 石垣が一切ないことである。 箱根山の自然な地形を巧みに利用して 架橋や土橋を深い崖に配置、尾根を区切るよう 曲輪を造成するなどして 石垣を築くことなく城の防御を固めている。 特に興味を引くのが堀をいくつも作り その間を細い畝で仕切るようにして敵の進軍を食い止める工夫、 すなわち「北条流障子堀」の遺構である。 畝は堀に対して直角に築かれ その傾斜は50~60度と非常に急峻に作られている。 堀底から畝への高さは築城当時は9メートル、 堀の幅は2.5メートル×9メートルで作られているので、 ひとたび堀にはまった兵士はさながら蟻地獄の中でもがき苦しむこととなっただろう。 今は深さ2メートルとなった堀だが、 それでも孫は抜け出すのに苦労していた。 我々が到着したのは10時前、未だ人影もまばらで、 じっくりと箱根山に残された山城の風情を楽しんだ。 (二の丸跡からの眺め、富士山は雲の中) 1時間半後入り口に戻ってきたころには観光バス、自家用車が数多く駐車、 「山中城」の観光としての取り上げ方の人気度が窺われた。
by shige_keura
| 2016-04-19 10:59
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