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熊本~天草の旅 -肥後の石工-
私は読んだことがないが
「肥後の石工」(ひごのいしく)という児童向けの本がある。
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江戸時代に肥後の国をより良くするために
石橋作りに心を砕いた男たちの物語。

そこからアーチ式橋(眼鏡橋)造りの名人集団
「肥後の石工」の名前が生まれた。

「肥後の石工」の凄さを物語る数字がある。

全国に残っている眼鏡橋の数はおおよそ1,000、
そのうち9割が九州に存在し、
その3割以上が熊本県(肥後の国)に集中している。

更に、名工たちは隣の薩摩の国に呼ばれ、
国を守る重要な橋梁建築を任された。

彼らは本拠地・熊本だけではなく
九州全般に影響力を及ぼしたのである。

石工たちは阿蘇の大噴火がもたらした火砕流が
冷却してできた溶結凝結岩が
石材に適していることを見抜き、
米どころの肥後の国をより豊かにするための
水路橋、往来橋を急流の難所、要所に架橋していった。

益城郡を流れる堂々たる緑川に
船津峡と呼ばれた交通の要所にして難所があった。

江戸時代の初めに架けられた木の橋は次々と流失していった。
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そこで立ち上がった72名で組織された肥後の石工のプロ軍団は
1846年に難工事の末にアーチ式の、いわゆる眼鏡橋を架けた。
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橋の名前は「霊台橋」(れいだいきょう)、
おそらく霊魂尽きるほどの努力の結果、
台地に根を生やすかのように完成した橋と言う想いが込められているに違いない。
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この橋は1966年に上流に鉄橋が出来るまで、
船津峡谷の難所を行き来する人たちにとって
千人力の力を発揮したことは間違いない。
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「霊台橋」から峡谷を登っていくと
緑川の支流、阿蘇の外輪山の南側を流れる五老ヶ滝川がある。

その川に江戸時代、1854年に架けられたのが
「通潤橋」(つうじゅんきょう)の名前がついている眼鏡橋である。

この橋の役目は名前が示す通り、
潤いを通すための橋である。
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すなわち、周辺の水に恵まれぬ台地に
灌漑と飲料の目的で作られた橋、
これのおかげで肥後五十四万石の健全な運営が可能となったのである。

「通潤橋」は日本の独自技術で実現した
最初の噴水管(逆サイフォン)として
「肥後の石工」のものづくり技術の高さを今に伝えている。
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「肥後の石工」、老爺となった今、
遅きに失したが、名児童文学書をひもとこう。
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by shige_keura | 2016-11-25 08:51 | | Comments(0)
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