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出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -2-
-米子と言えば・・・-
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天守閣が国宝指定となっている松江城、
別名千鳥城を駆け足でめぐり
初日の宿泊地である米子に到着する。
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地方活性化の声がむなしく聞こえるほど
米子の街はさびれていた。
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旧市街の河童橋周辺も荒廃、
かつては漁師たちで賑わった飲み屋街も閑散としている。
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お勧めの居酒屋「稲田屋」、
猛者海老、ひと干しの烏賊をはじめ
当地の味に満足したがお客は入ってこない。
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昔日の米子は戻ってこないのか?




私にとって、米子と言えば反射的に思い出すのが
高校野球の米子東高校であり、
痩身ながらチームを準決勝まで導いた
美男の長島康夫投手である。
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タクシーの運転手さんに聞いてみた。

「その昔、甲子園を沸かせた
 米子東の長島投手ご存じですか?」

「お客さん長島さんのこと知ってるの!
 私にとっちゃ、知ってるも何も、長島さんは郷土の誇りよ、
 だけど今じゃ米子東も弱くなっちゃって甲子園どころじゃないね」。

街が衰退してくると高校野球の力も衰えてくるのだろうか。

長島さんが甲子園で話題となったのは
1956年の夏の大会、彼が19歳の時の事だった。

この文章で、おかしい?と思う人は高校野球通である。

何故ならば高野連の規則では
18歳を超えると年齢超過で大会には出られなくなるのだ。

19歳で甲子園に出場、
その裏には長島さんが辿った苦難の道がある。

長島さんは小学校3年の時に北朝鮮で終戦を迎えた。

戦地に行った父は消息不明で結局帰ってはこなかった。

母と妹との三人生活は貧困を極め、
妹は栄養失調の為この世を去った。

日本に帰国した時は戦後の混乱で
長島さんの小学校再入学が1年遅れた。

新聞配達をして家計を助けた長島さん、
恩師の計らいで諦めていた高校進学が叶った。

母親お手製の布製のグローブで野球に親しんだ長島さん、
高校3年を迎えたときは19歳となっていたのだ。

従って、甲子園には出たくとも資格がなかったのだ。

それが米子東高校野球部必死の嘆願が聞き届けられ、
大会直前の6月に特別出場許可が出た。

2回戦から登場した米子東は初戦の対別府鶴見丘高校を1-0で破る。

長嶋さんはエースとして完封、
2安打12三振の文句もつけようもない完璧な投球内容だった。

準々決勝は強豪・中京商業に対し3-0とまたも完封勝利、
長島さんの名前は米子東の紅顔の美少年として全国に轟いた。

準決勝は岐阜商業、好投手、清沢さんとの息詰まる投手戦、
惜しくも1-2で甲子園から去ることとなった。

当時の野球解説者から長島投手のシュートは
高校生では打てませんと評価された。

このシュートは当時関学のエースであり
後に阪神を背負った村山実さんからの直伝だったのだ。

偶々、当時の米子東の監督が村山さんと知り合いであった縁で
練習を見に来てくれた時に教えてもらったと言う。

1956年以来、鳥取勢が甲子園で2回勝ったことは無い。

この時が米子東にとって、
長島さんにとっても一瞬であるが光り輝いた時だったのだ。

高校卒業後、長島さんは巨人をはじめ
多くのプロ球団からの誘いを断り
当時の富士製鉄に入り社会人として活躍していった。
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今は、横浜でお暮らしで、
自ら「19歳の甲子園」を出版された長島さん、
一度是非ともお会いしたいと願っている。
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by shige_keura | 2017-04-03 18:36 | | Comments(0)
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