情の人
巨人を9連覇に導いた川上元巨人監督の言葉から始めよう。 「意の広岡、知の森、情の藤田」、 いずれも巨人出身の名監督を評した言葉だ。 広岡は万年Bクラスのようなチームを 意のままに鍛えるのが向いている。 森はある程度出来上がったチームを 彼の知力で動かせばよい。 若手中心のチームには藤田の情が チームの一体感、信頼感を高めていく。 今治から丸亀に向かう途中、 西条、新居浜と大好きな藤田さん出身地の標識が現れて胸が熱くなる。 藤田さんは新居浜の出身、 甲子園とは無縁の西条北高校から慶應に入学した。 野球部初日の練習、 藤田さんがブルペンで投げ始めた瞬間、 それ以外の時は止まったかのようだった。 「誰だ?あいつは!!すげー球だな!!!」。 おまけに、投球フォームの格好の良さ、 あたかも大空に向かって羽ばたく鷹のような 伸びやかさと力強さがあった。 その伸びやかさは今見る 風光明媚な瀬戸内海の景色と繋がっていることを感じた。 慶応時代の成績31勝19敗は、 志村と並び宮武三郎に次ぐ2位。 抜群の成績ながら1年以外、 中心選手として優勝の経験はなかった。 ノンプロの日本石油時代に日本一を味わうも、 巨人の現役時代は一度として日本一になれなかった。 それでも彼は黙々と淡々と投げ続けた。 巨人入団初年は17勝で新人王、 翌1958年、29勝、1959年は27勝で 連続MVPの栄誉を得たが日本一の美酒は味わえなかった。 172センチ、夏場には60キロを切る痩身を使った全力投球、 いつしか藤田さんには「悲運のエース」、 「球界の紳士」とのニックネームが付けられていった。 しかし、その一方で藤田さんは「瞬間湯沸かし器」、 怒らせたらとんでもないことになるとも囁かれていた。 慶応時代、一緒にバッテリーを組んでいた土佐高出身の名捕手、 永野元玄さんに直接お話を伺ったことがある。 永野さんはこのように仰った。 「あれだけ、紳士、紳士と言われると、 そりゃどうしたって紳士らしく行動しなけりゃと、なるでしょう」。 そのとき、永野さんはこんな出来事も紹介してくれた。 「藤田さんは或る日、仲間が他の学校に苛められたと聞いた途端、 木刀を引っ提げて単身で殴り込みましたよ」。 川上さんが語る「情の藤田」とは 温情でもあり激情でもあるのではないか。 斉藤雅樹投手が現役時代のある試合、 彼が打ち込まれたときにベンチから藤田監督がマウンドに近づいた。 そして斉藤投手に話しかける直前に いつもの柔和な顔が鬼の形相に変わった。 「この試合は、お前に任せたんだ俺は! いくら打たれても代えんからな!」。 斉藤が大投手として11試合連続完投するのはそれから暫くの事だった。 当時、自他ともに許す熱血監督が星野だった。 彼は誰彼かまわず睨みを利かせ、相手を睥睨した、 審判にまで当たりちらし恫喝することさえあった。 その星野監督が藤田さんと睨み合って負けた。 両軍ベンチから選手が飛び出しての睨み合い、すわ一触即発、 そのとき藤田さんと視線が合った星野さんは 人生で初めて自分の方から目を伏せたと言う。 日本プロ野球史、名将の誉れ高い野村克也さんはこんなことを言っている。 「投手出身の監督は精神野球で本質から離れている、藤田さんを除いては」。 私が見る藤田さんは黒澤明監督の名作「七人の侍」に登場する 孤高の剣士、久兵衛(宮口精二演)を髣髴とさせる。 静かなる誇り高き古武士、 すべてを自分の胸にしまいこんで成すべきことを成す人、 それが球界の紳士、情の藤田さんなのである。 第一次長島政権のあとの監督として火中の栗を拾い、 王さんにバトンタッチ、そして王さん退陣後の収拾を静かに見事に成し遂げ 第二次長島政権に淡々と手渡した。 こんな芸当は藤田元司さん以外に誰が出来ただろうか。 心臓に持病を抱えていた藤田さん、 ユニフォームの尻のポケットには いつもニトログリセリンが入っていたことを知っていた人は少ない。
by shige_keura
| 2017-04-16 13:38
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