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春の北陸路 -2-
   「越前の山間・西の京」

福井市から東南30キロほど、
九頭竜川水系足羽川(あすわ川)の支流一乗谷川下流沿いに
一乗谷と呼ばれる谷合いがある。
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東西500メートル、南北3キロに及ぶひっそりとした谷合いに
その昔、西の京と謳われるほどの文化が発展していた。
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この地が歴史に現れるのは南北朝時代に遡る。

この時代から支配していたのが朝倉氏、
この谷合いは東西南は山に囲まれ、
北には足羽川が流れるまさに天然の要害だった。
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この地をめざし多くの人が集まったのが応仁の乱、
荒廃した京都から天然の要害に多くの人たちが逃れてきた。

その中には多くの公家、高僧、文人、学者が含まれ、
この地で華やかな京文化が開花する芽となった。
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戦国の世、朝倉孝景の頃にこの地は全盛期を迎え、
1万人を超える人々が暮らすまでとなっていった。

暗転したのは1568年、
将軍足利義秋が一時身を寄せた朝倉氏を見限って
美濃の織田氏を頼ったことである。

1573年朝倉氏は織田を迎え撃つも敗れ大野に背走、
織田信長は一乗の里を焼打ちにした。
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その後は一向一揆等の舞台となったが
越前八郡を賜った柴田勝家は
本拠を北の庄に移したことで一乗谷は歴史の舞台から消え去った。

400年近くも忘れ去られていた越のお里が
陽の目を見たのは1967年に始まった発掘調査。
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以来、この里が予想を遥かに上まわる規模を持った
都であったことが徐々に明らかとなってきた。

私が最初にこの地を訪ねたのは1990年後半、
その頃は未だ福井の奥田舎、ひなびた風情の中
にかつての北の京の片鱗は正直言って肌で感じなかった。

ところが、今回の訪問では
遺跡発掘が驚異的に進んだこともあって
北の京の雅な面影が実感となって感じられた。
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同時に遺跡発掘が如何にロマンを掻き立てるものかが良く理解できた。
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インディアナ・ジョーンズではないが
考古学にのめりこむ人の心境が大いに理解できた一乗谷訪問だった。
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by shige_keura | 2017-05-03 10:51 | | Comments(0)
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