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罪人、終焉の地
発展する東京の地下鉄網。

その中で、日比谷線は
3番目の歴史を誇る老舗路線だ。

区間は中目黒から北千住まで
東京の山の手と下町を貫く路線として開業した。

この日比谷線に乗ると、
電車が銀座を過ぎてほどなく
「八丁堀」に差しかかる。

江戸時代に開削された堀の長さ、
約8町(873メートル)が町の由来だ。

ただ、それよりも江戸の町を取り締まっていた
同心、与力の居住地としての方が有名である。

「八丁堀」のすぐ先が「小伝馬町」、
同心、与力に捕らえられた罪人が収容される
牢屋のあった所だ。

更に進み、終点のひとつ手前の駅、
それが「南千住」の駅名だ。

そして、この駅の目の前に
当時の罪人終焉の地のひとつ
小塚原の処刑場があった。
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尚、「南千住」の駅は
終点の「北千住」に比べると
比較にならぬほど侘しい。

どうせなら、終点の駅名を「千住」として
南千住を「小塚原」にすればよかった。

ならば、ありふれた日比谷線と違ったネーミングで
売り出すことも可能だったと思う。

候補は、地下鉄「獄門線」
或いは「磔線」などが良いかも知れぬ???




江戸時代の極悪罪人。

その終焉の地は
大きく分けて3つあった。

ひとつは収容されていた小伝馬町。

ただ、いきなりここで処刑されたわけではなく
江戸城の周りを引き回された後
首をはねられた。

あとの二つが
小塚原と鈴が森。

小伝馬町を出てから
日本橋、赤坂御門、両国橋等を通り
全長20キロも引き回された後に
処刑が待っている。

まさに1日がかりの処刑!

引きまわす方も大変だが
引きまわされる罪人もくたびれ果て
処刑される前に息絶えそうになるだろう。

さて、理由はあとで述べるが
この処刑の地を初めて見学したのが
6月27日のことだった。
c0135543_1618921.jpg

この界隈は鉄道が入りくんでいて
歩道橋の上からの景色は
さながら鉄道マニアの
ミニチュア模型を見るが如しである。

下の画像の高架鉄道が地下鉄日比谷線、
その下に僅かに見える墓地が
小塚原処刑場跡地である。
c0135543_1618534.jpg

そして、跡地の向こうを
常磐線が走っている。

両側をのべつ幕なし電車が走っている。

ゴーゴー、ゴーゴー、
これじゃ葬られている人たちも
安らかになれる筈が無い。

いくら罪人とは言え
死んだら皆、仏の論理からまるで外れている。

尚、ここは江戸時代、1667年から処刑地とされ
敷地は約1,800坪、
日光街道に面していたとは言え
当時は家並みも無く一面の草原だった。

処刑地として機能した228年の間
この地で葬られた屍の数は20万以上!!!

単純平均で年間887人が
葬られた事となる。

これに加えて、鈴が森に小伝馬町
当時の処刑者は
今の死刑執行とまるで比べ物にならない多さである。
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この罪人の処刑を
ずっと見つめていたのが
巨大なる地蔵、”首切り地蔵”だ。
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気のせいかその顔は
哀れみに溢れているようだ。
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この処刑跡地のすぐお隣が回向院。

ここには小塚原で処刑された
安政の大獄連座の被害者とも言える
吉田松陰、橋本左内の墓がある。

更には、義賊、鼠小僧次郎吉、
毒婦、高橋お伝の碑も祀られている。

               (左端が鼠小僧、3番目がお伝の碑)
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少し早めに着いたので
松蔭のお墓にお線香をたむける。
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西洋文明に明るく
進歩的であった松蔭が
処刑されたときは弱冠30歳の時。

長い鎖国が外からの圧力で
扉を開かざるを得なくなった時、
多くの知識人が
ほんの少しの考えの違いで
若い命を落とした時代だったのだ。

それに比べれば・・・・・・・・・・
止めておこう。

話は変わるが
小塚原見学は実を言えば
この鰻の名店、「尾花」訪問のついでであった。
c0135543_16225077.jpg

最後に、「尾花」の鰻は
生涯食べた鰻の中で
最高峰の味だったことを言っておこう。
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by shige_keura | 2008-07-02 08:55 | | Comments(0)
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