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ピカソと紫陽花
ピカソが紫陽花の絵を描いた事ではない。
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6月15日、梅雨の合間の晴れの日、
暑さを感じるが、時折涼やかな風が吹き抜けていく。
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ここは高級住宅地と言えば田園調布、
お馴染みの並木道を洒落た邸宅を見ながら進むと宝来公園。
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そこを右に入ってすぐの所に本日の目的地が現れる。
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福岡に続き「みぞえギャラリー」が、
ここ田園調布にオープンしてから5年を記念して
「ピカソ、その芸術と素顔」と題した特別展示が行われている。
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瀟洒な日本家屋は数十年前に一代で巨億の財産を築きながらも
波乱万丈な生涯を送った横井英樹氏が建てたと伝わっている。
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入館無料ながら訪れる人の数は平日の為か多くないので
ゆるゆると天才の芸術2点を鑑賞した。

ひとつはピカソが没する1年前(1972年)に描いた「男の顔」、
そしてゲルニカ空爆の前日に完成した「静物」だ。
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ゲルニカ空爆とは、
スペインが右派と左派に分かれて内戦に突入した最中、
フランコ将軍と手を組んだドイツ空軍が
1937年4月26日北部バスク地方の最古の町
ゲルニカを徹底的に破壊したものである。
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悲劇の一報をパリで聞いたピカソは
パリ万博の壁画に当初の予定を変更してゲルニカの悲劇を描く事を決心し
3.5メートル×7.8メートルの大作を1か月余りで完成させた。
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ゲルニカの壁画はむごたらしい惨状を
ピカソ独特のタッチで描き彼の傑作として
後世に伝わることとなっていった。

ここ、田園調布ギャラリーで見る「静物」は
ゲルニカの悲劇の前日を表すかのような
「嵐の前の静けさ」の雰囲気が伝わってきた。

展示のもうひとつのテーマ、「素顔」は
ピカソの晩年に家族のように寄り添うように暮らしたカメラマン、
ロベルト・オテロの数十にも及ぶ作品が展示されていた。

そこには娘に捧げるピカソの愛情に満ちた表情、
それとは対照的なスピーチに臨む前の
ピカソと関係者の緊張の糸が張りつめたかのような写真が印象的だった。

日本庭園を見ながらお茶に羊羹のサービスを満喫しギャラリーを出る。
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目的は無く足の向くまま坂を上り下りして
多摩堤通りを丸子橋を目標に進む。
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陽の照りつける中の散歩、
疲労感が増す頃に思い出したのが
多摩川台公園の紫陽花が見ごろだと言うことだった。
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公園内にはご同輩がスケッチをしたり写真を撮ったりと賑やかな事。
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紫陽花の種類も昔とは比べ物にならぬほど多くなり目移りがするが、
私は定番のブルーのものが最も好ましく思える。
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梅雨の合間の晴天の一日、
ピカソと紫陽花で充実した気分となった。
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# by shige_keura | 2017-06-23 09:51 | | Comments(1)
祭のあとの祭りの準備
競馬最大のお祭りと言ったら
「ダービー」(東京優駿)であることに異論をはさむ人は居ないだろう。

満3歳を迎えた若駒、7,500頭から選ばれし18頭が
一生に一度のチャンスを掴もうと晴れの舞台で躍動する。

               (2017年ダービー優勝馬、レイデオロ)
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馬を管理する調教師の人たちは、よくこんなことを口にする。

「ダービーが終わった翌日から
 来年のダービーに向けての準備が始まるのです」。

とは言え、ダービーが終わった翌週の土曜日の競馬場は
どことなく緊張感が解け放たれ、ゆったりとした気配が流れている。

中高校の先輩であり、敬愛する故山口瞳さんは
人気連載「男性自身」のなかで「ダービーのあと」と題して
東京競馬場に流れるゆるりとした雰囲気をものの見事に表現していた。

確か、こんなことが書いてあったように思うのだが。
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「春競馬のクライマックス、ダービーが終わった府中、
 そこはかとなくのんびりとした空気が漂っている。
 それはダービーが無事終わったあとの安堵感から来ているのだろうか。

 馬の数も気のせいか少ないようだ。

 すでに夏競馬の福島、新潟、北海道に旅立ってしまったのだろうか。

 ひと際逞しくなった馬たちが戻ってくる秋には
 違った名勝負が繰り広げられることだろう。」

6月3日晴天の土曜日、すなわちダービーの翌週、
府中競馬場に足を運んだ。

この季節に富士山がくっきり見えるのは珍しい。
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それほど空気は澄んで清々しい日だった。

この日のお目当ては午後の最初のレース、第5レースである。
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このレースは関東地区で行われる
最初の2歳馬のデビュー戦、つまり新馬戦である。

この年代の2歳馬が何頭いるのか知らないが
恐らく7,800頭はいるだろう。

その若駒が来年のダービーを目指す最初のレースなのである。

レース開始前30分、パドックに16頭の若駒が入場してきた。
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生まれてはじめてのレース前のパドック、
キョロキョロあたりを見渡す馬、
早くも胸前に汗を滴らせている馬、
古馬のように落ち着いている馬、
チャカチャカとせわしない歩様で歩く馬。

中では4番のビリーバーの気配の良さが目立っていた。
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4番人気とそれなりに人気を集めているのだが、
最大の懸念が騎手の岩部、
こういっては悪いが決して上手いジョッキーとは言えない。

御贔屓の田辺のブショウ(2番人気)か
柴田大地のヴイオトボス(3番人気)とも考えたが
結局は自分の目を信じ岩部のビリーバーをビリーブ(信頼)することとした。
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ゲートが開いて来年のダービー目指して
16頭が力強い蹄音を響かせ4コーナーから
府中の長い直線に入ってきた。
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残り200メートルの所で内をついて
4番のビリーバーが先頭に立ちゴールを目指す。

脚色は良いが抜け出すのが早すぎるのでは?

その懸念はゴール前で現実となった。

真ん中と外から2頭の馬がビリーバーを交わし
ゴール板を馬体を接するように駆け抜けた。

掲示板には1着12番ヴィオトボス、
2着14番ブショウ、3着4番ビリーバーと揚がった。

「うーん、残念、やはり騎手の腕の差が出たか」。

馬券戦術には負けたが、
本シーズン初の新馬戦を大いに堪能した。

来年のダービーにはどのような18頭がコマを進めてくるだろうか。

ダービーが終わった次の日から
来年の祭りの準備が始まったのだ。
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# by shige_keura | 2017-06-06 21:58 | | Comments(0)
端午の節句に欠かせぬもの
旧聞に属する話題だが、
今年の端午の節句はまさに五月晴れ、
風薫る中、青空を鯉のぼりが元気よく泳いでいた。
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端午の節句になくてはならぬものは
鯉のぼりのほかに兜、武者人形、
食べ物で言えば柏餅に粽と色々ある。
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ただ、重要なものにも関わらず、
忘れかけているのが菖蒲湯だと思う。

元来、端午の節句は別名菖蒲の節句と言われるほど
菖蒲が主役の厄払い行事であり、
菖蒲無くしては端午の節句は
成り立たないものであることを忘れてはならない。

端午の節句の歴史を紐解けば中国に
その源をたずねることが出来る。

中国ではその昔の旧暦5月は病気が流行し
多くの人がこの世を去った。

その為、厄除けに菖蒲を門に挿したり、
菖蒲に浸した酒を飲んで無病息災を祈願した。

この風習が奈良時代に日本に伝わり、
我が国独自の端午の節句となっていった。

すなわち、武家社会に入ると
菖蒲は尚武に通じると言うことから、
逞しく男子が成長していくことを願う今日の節句の基本形となった。
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鯉のぼりが躍るさまを見上げ、
兜等を飾り、粽、柏餅を食べるのも良いが
締めくくりにあるのが「菖蒲湯」である。

ただ、ここで基本的に間違えないでほしいのは
花菖蒲と菖蒲は全くの別物であることだ。
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花菖蒲は紫色がお馴染みの美しい花を咲かせるアヤメ科の植物。
花は美しいのだが葉や茎には
なんお香りもないし効能も無い。

従って花菖蒲の葉や茎を風呂に入れても何らご利益は無い。

一方の菖蒲はサトイモ科の植物で
花はガマの穂に瓜二つである。
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花だけで比べれば菖蒲は花菖蒲とは勝負にならない。

しかし、菖蒲の葉には独特の芳香があり、
茎や根には血行促進、鎮痛作用を持っている。

つまり、「見た目の花菖蒲、中身は菖蒲」となる。
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より良い香りと効果を得るためには
我が家のような給湯式風呂の場合は
最初から菖蒲を浴槽に入れてから
多少熱めのお湯を張るのが良い。

今年は残念ながら5月5日はとうに過ぎ去った。
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来年は是非、菖蒲の湯で温まっていただきたい。
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# by shige_keura | 2017-05-13 18:28 | その他 | Comments(0)
春よ来い
もう亡くなってしまったが、
好きな落語家の一人に春風亭柳昇という、
ばかばかしいことこの上もない噺家がいた。

冒頭の決まり文句がこれ。
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「私の名前は春風亭柳昇と申しまして、
 大きなことを言うようですが、わが国では・・・・・・・・
 私一人でございます」。

柳昇の持ちネタに「里帰り」というのがある。

嫁に行った娘の“おはる”が義母に苛められて度々里帰りするのだが、
ある秋の日、彼女が帰ってきた。

柳昇はとぼけた口調で訥々と言う。

「なんだ、はるがまた来たか、毎年、あきになるとはるが来るな」。

柳昇の言葉に倣うと、4月20日の山中湖畔は
「お春が来たと言うのにお冬は未だ居座ってるのかね」となる。

ゴールデンウィーク前、例年通り
夏の準備の為、山中湖畔の家の点検、掃除に出かけた。

庭の富士桜のつぼみは開いているだろうか?
旭ヶ丘、三国峠の山桜は?湖畔の桜は?

出発前の期待は見事なまでに裏切られた。
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山中湖周辺は未だ冬一色、出迎えてくれたのは黄色い水仙と
枯葉に埋もれるように咲いているクリスマスローズだけだった。
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木々もよーく目を凝らして見れば
若芽の息吹が感じられるものの冬木立、
灰色の世界が広がっている。
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しかも、この冬の厳しさを物語るように
木々の枝が折れ、例年に比べ景色が殺風景に感じられた。
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しかし、悪いことばかりではない。
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富士山は終日に渡り見事な姿を披露してくれたし、
北岳をはじめとする北アルプスの全容が
今日ほどくっきりと見えたことはない。
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山中湖のバックに広がる北アルプス
その雄大なパノラマにしばし目を奪われていた。
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# by shige_keura | 2017-05-09 08:43 | | Comments(0)
春の北陸路 -7-
  「一期一会」

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夜桜お七にたぶらかされたのか、
真っ直ぐホテルに帰る気にはならず、
向かった先はその昔よく通ったジャズバー。
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“Bokunen”の名前のバーは尾崎神社のすぐそば、
人っ気のない場所にいつものネオンがボーっと輝いていた。
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女性オーナーとの再会は3年ぶりぐらいなのだが、
覚えてくれていたらしく、
暫くして澄んだ音色のピアノと歯切れの良いドラムス、
アンドレ・プレヴィンとシェリー・マンによる名盤
「マイフェアレディ」が流れてきた。
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山崎のオン・ザ・ロックスでジャズを楽しむ。

演奏がジェリーマリガンに代わる頃、
一人の西欧人が店に顔を覗かせた。
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アルコールの勢いもあって通訳を買って出ると
初めての日本で金沢は友人から勧められたとのこと。

本当はライブを聞きたかったのだが休みだったので
この店の存在を聞いて入ってきたと言うわけだった。

隣同士で久しぶりの英語で悪戦苦闘しているうちに、
驚くべき展開となっていった。

彼はアイルランドから来たと聞いた途端に興味津々、
何故ならば私の最も尊敬する映画監督
ジョン・フォードの故郷であるからだ。

そして、ジョン・フォードの作品の中で
最も好きな映画が、
アイルランドを舞台にした「静かなる男」なのだ。
               (「静かなる男」スタッフ、右端がJ・フォード
                隣がV・マグラグレン、J・ウエイン、F・フォード、ジョンの兄
                前に座っているのがB・フィッゼラルド)
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               (「静かなる男」ジョン・ウエインとモーリンオハラ)
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忘れもしない1984年欧州でのバカンスを過ごしたのが
アイルランドの西海岸にほど近いキラーニー。
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当時の日本人にはほとんど知られてい居ないところだった。

               (1984年の夏休み、アイルランド馬にまたがる娘)
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               (ガルヴェイ湾を背景に)
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何故、そのような所に行ったのかの理由はただ一つ、
キラーニーはジョン・フォードの故郷
西海岸ガルヴェイ湾にほど近くだからだった。

ここからは、アイルランドの彼との会話である。

「アイルランドのどこから来たの?」

「ガルヴェイさ、と言っても知らないだろうけどね」

「なにーー、ガルヴェイだって! 
 ジョン・フォードの故郷じゃないか!!」
               (ガルヴェイ湾と断崖)
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「何だ、おまえ知ってるのか!ガルヴェイを、
 いやいや、信じられないなー、どうして??」

「知ってるも、知らないも、俺は欧州で働いていて、
 ある年の夏休みをキラニーで過ごしたのさ、
 自然が綺麗で、地元の人たちは皆親切で
 いいところだったなー」

「そーか!気に入ってくれたか!
 ありがとう、ありがとう」

「ジョン・フォードの「静かなる男」は良かった!!」

「あれは最高だよ、ジョン・フォード素晴らしいな。
 それにしても、金沢に来てよかった、
 まさか故郷の話が出来るとは思わなかったよ」

一期一会。
                (BOKUNENの入り口)
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心地よいモダンジャズ。

ウイスキーを山崎から
アイルランドのブッシュミルのストレートに代えて
アイリッシュ男との楽しい会話が続いた。

これだから人生は面白い。
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# by shige_keura | 2017-05-08 09:00 | | Comments(0)
春の北陸路 -6-
  「加賀の国の食文化」

加賀百万石の中心地である金沢の
食文化程度は極めて高い。

今回の訪問で加賀の味を堪能した三つのお店を紹介しよう。

先ずは、「乙女寿司」。
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金沢到着した4月12日の正午、その足で向かった場所は
片町スクランブル交差点裏に小体な店を構えている。

ここ2年ほど冬は千取鮨で夜をゆっくりと過ごし、
春或いは初夏に訪問した時は乙女鮨で握ってもらっている。

先ず驚くのは店主の記憶力の良さ、
お客さんの顔は1回見たら絶対に忘れないようである。

とにかく前回にどの席に座っていたかも
正確に把握しているのにはびっくりさせられる。

この日はお昼のお任せコースで
北陸の旬の味を満喫した。

ここの握りは千取と比べ若干柔らかめであるが
すし種は店主の若さもあって
新たな試みがなされているようだ。

千取では絶対に出てこないノド黒を
ひと炙りした握りは脂が程よく乗っていて絶品だった。

お任せ終了して、もう少し追加したいところをぐっと我慢する。

何故なら、夕食に腹具合を合わせておかねばならないからだ。

12日の夕食は金沢郊外、湯涌く温泉手前にある「つばき」。
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ここは和菓子の名店「吉はし」のご主人の紹介で
3度目の訪問となる。

3度目と言っても今まで2回は12月、
春に訪れたのは今回が初めてだった。

ここは狩猟の免許を持っている店主の小村さんが
山や渓谷で採取した恵みを振る舞ってくれる。
               (筍と山菜の煮物)
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冬は熊、鹿等々の「マタギ料理」、
春はバラエティに富んだ山菜、しし鍋、
夏は鮎、そして秋はキノコと
四季折々、料理の主役が変化していく。
               (川鱒の刺身)              
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そして、必ず出るのがすべてのお客が絶賛する濃厚なる胡麻豆腐。
               (山菜各種と胡麻豆腐・右上)
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福光屋のぬる燗をちびちび飲りながら、
春の鮮烈な香りにワクワクしながら箸を進め、
最後は濃厚なだし汁のしし鍋をつつく。
               (店内に活けてあった緑桜、花も緑色)
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春とは言え、夜になるとまだ肌寒い北陸、
鍋とお酒で暖まり満ち足りた気分となった。

13日の夕食は「雅乃」、
ここも吉橋さんの紹介で今回が初訪問だった。

金沢の老舗料亭銭屋の板長として腕を磨いたご主人が
15年ほど前に独立し犀川べりにお店を出した。
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部屋はふたつ、我々一行6名に絶好のカウンター席、
個室同然の優雅な場所、
目の前でご主人が緊張感をもって
包丁を振るう様が見られるのが素晴らしい。
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酒の種類も豊富なのだが
ぬる燗の酒は福光屋の「黒帯」と昨夜と同じ。
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居心地最高、料理も最高に大満足。
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良い気持ちとなって店を出る。
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横丁を曲がろうとしてふと後ろを振り向くと
ご主人はまだ深々と頭を垂れている。
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吉橋さん仕込みのお役様への対応、
ほろ酔い気分に犀川の夜桜が妖艶に微笑んでいた。
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# by shige_keura | 2017-05-07 17:31 | | Comments(0)
春の北陸路 -5-
  「山岳信仰の拠点」

北陸(富山・石川・福井)には
日本三名山と称される山がふたつある。

ひとつが富山県の立山連峰であり、
もうひとつが福井県と石川県にまたがる白山(標高2,702メートル)である。

三名山は同時に三霊峰とも呼ばれているように
白山も大昔から山岳信仰の山として崇め奉られてきた。
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奈良時代に入り、泰澄によって
福井県側の登拝として開山されたのが平泉寺であり、
以降、白山信仰は正式な修験道として
多くの人を集めるように発展していった。
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中世になると北陸でも有数な勢力有し
広大な境内には数十の堂や社、
数千にのぼる坊院が建ち並ぶほど巨大な宗教都市となった。

               (平泉寺で見かけたかたくりの花)
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また、平泉寺は堅固な石垣、砦を築き
難攻不落の城塞都市として戦国大名や一向一揆と対峙した。

しかし、天正2年(1,524年)一向一揆との戦いに敗れ、
全山は火の海に包まれすべてが灰塵と帰してしまった。
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今では江戸時代に再興された本社、拝殿に
往時の栄光の一端を偲ばせている。
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平成元年から遺跡発掘が始まったのだが、
その結果、平泉寺の規模は予想を遥かに超える
巨大なものであることが徐々に明らかになってきた。
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それは、日本の道百選にも選ばれている
中宮に向かう堂々としながらも神々しい佇まいを持つ参道に
巨大宗教都市の雰囲気を感じ取ることが出来る。
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ここは、京都の苔寺と並ぶほどに
苔の美しさで知られているが、
訪れたときは未だ雪が残る為、
ところどころ、庭の清掃作業が思うように進まず
枯れ枝が苔の上に散乱していた。
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それでも鬱蒼とした杉木立の中に静かに眠る平泉寺、
スケールの奥深さを十分に感じ取ることが出来た。
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# by shige_keura | 2017-05-06 08:42 | | Comments(0)
春の北陸路 -4-
  「越前は蕎麦の里」

1997年金沢に赴任する前、
私は一度として北陸の地に踏み入れたことは無かった。

辞令を貰って慌てて地図を見て
富山・金沢・福井の位置関係を調べたものだった。

だから、福井、越前の里が蕎麦どころであることは知る由もなかった。
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「信州長野の蕎麦よりも、あたしゃあなたのそばがいい」。

私の中での日本の蕎麦どころと言えば
信越線の駅で立ち食いした信州そば、
あるいは新潟の妙高、戸隠蕎麦ぐらいだったと思う。

基本的に蕎麦の好みは圧倒的に田舎蕎麦びいき、
麻布更科が売りにしている御膳ソバなどは、
生白くて歯ごたえもなく、とてもではないが
食べるだけ損する感じを抱いていた。

金沢赴任後、富山に住んでいた同僚がある日、こう言った。

「富山も旨いものはたくさんあるんですがね、
 蕎麦は福井に叶わないね。あそこのオロシ蕎麦ときたら・・・
 一度食べてごらんなさい」。

底の浅い椀に蕎麦が盛られ、そばつゆは掛かっており
上におろし大根が盛られた、言ってみれば無骨極まりの無い福井の蕎麦。

一口食べて正直驚いた。

そばの香りと芯がまだ残ってるかのような麺、
ところがのど越しはすこぶる滑らか、
今では越前蕎麦に優る蕎麦は日本にないと私は断言する。

一乗谷見学のあとの昼食、
当然、お目当てはオロシ蕎麦なのだが、
名店「ふる里」は遠いし、
行ってみても今日の水曜日はやすみだからどうしようもない。
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そこで訪れたのが、
まずは観光客が立ち寄らない穴場中の穴場、「宿布屋」、
ここは老夫婦二人だけで切り盛りしているお店で
出すものはおろし蕎麦ただひとつ。
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それだけこの一品にこだわりを持っているのだ。
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ちょいとピリッとくるおろし大根が絶妙のアクセント、
太めの蕎麦と共にあっという間に我が胃袋に収まった。
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「旨い!」、これが本当の蕎麦だぜ!!

勿論、トロッとした蕎麦湯が優しく腹に沁みわたる。

帰り際奥で働いていたご主人が出てきた。

「二十年ほど前に一度立ち寄らせてもらいました。
 今回、東京から越前を見てまわってます」。

「それはそれは、遠いところをありがとう存じます。
 どうぞ楽しい旅をお続けください」。

旅の途中、地元の人たちとのこういった会話は堪らない。
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# by shige_keura | 2017-05-05 08:35 | | Comments(0)
春の北陸路 -3-
  「秘剣誕生の地」
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朝倉氏によって繁栄した一乗谷の遺跡から
ほど近いところに一筋の清冽極まる滝がある。
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その滝の近くに刀を構えた一人の武士の銅像がある。

その人の名前は誰もが知っている佐々木小次郎である。
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佐々木小次郎は謎の多い人物で
真相は解明されていないものの、
宮本武蔵との巌流島の戦い(1602年或いは1612年)は
日本史の中の最高の剣豪の果し合いとして
多くの小説、映画に取り上げられている。

このとき武蔵は戦いに備え、
刀ではなく船の櫂(かい)を使用したと伝わっている。
               (「船島」(巌流島に立つ二人の剣士の像)
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その訳は相手の佐々木小次郎の持つ、
通称「物干しざお」と呼ばれた3尺余の大刀を操る
秘剣「ツバメ返し」に対抗するためのものだった。

秘剣「ツバメ返し」の誕生の地が、
ここ一乗滝であったと言う伝承が今に伝えられている。

小次郎は若かりし頃、この地で「ツバメ返し」を会得したのだが
武蔵との巌流島の戦いは、これより数十年あとのことと伝えられている。

その時武蔵は20歳ごろの若人、
小次郎は60を超えまさに老境の剣術師だった。

では、何故、若かりし頃の小次郎は
この一乗滝で剣術に打ち込み「ツバメ返し」を自らのものとしたのだろうか?

               (尾上菊之助演じる映画・佐々木小次郎)
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佐々木小次郎は安土桃山から江戸時代にかけての剣客で
号を岩流或いは厳流を名乗った。

出身地には二説、豊前国(福岡)と越前国(福井)あるが
武者修行をしていた時代に
一乗谷、朝倉氏のお抱え剣術師である富田勢源に師事していたことがあった。

勢源は特に小太刀の扱いに優れ、
小次郎は何度挑戦しても勝つことが出来なかった。

小次郎は師匠と同じ長さの刀では勝てないことを悟ったのだが、
大刀をもってしても必勝の技を掴むことは至難の業、
悩みに悩みぬいていた。

そんなある日、小次郎は一乗滝を前にして考えに耽っていた時、
一羽のツバメが風を切るように目の前を横切り空に舞い上がった。

そのとき、小次郎の脳裏に閃いたのが、
飛んでるツバメを切ることが出来れば
師匠の富田勢源にも勝てることが出来るということだった。

こうして生まれたのが秘剣「ツバメ返し」なのである。

その奥義は次のようなものである。

相手に対して上段に構え、大刀を振り下ろす動作を起こし、
相手が思わず怯むところを、刀をすかさず下段におろし
瞬時に上に切り上げる必殺技である。
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これが世に有名な「ツバメ返し」、
吾等世代がおなじみの「チャンバラごっこ」でお馴染みの技である。
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目の前に見る、一乗谷川の清冽な滝、
周囲の緑の中を舞うツバメを想像すると
この地で小次郎がツバメに立ち向かった姿が実感出きるのが面白い。
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# by shige_keura | 2017-05-04 08:31 | | Comments(0)
春の北陸路 -2-
   「越前の山間・西の京」

福井市から東南30キロほど、
九頭竜川水系足羽川(あすわ川)の支流一乗谷川下流沿いに
一乗谷と呼ばれる谷合いがある。
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東西500メートル、南北3キロに及ぶひっそりとした谷合いに
その昔、西の京と謳われるほどの文化が発展していた。
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この地が歴史に現れるのは南北朝時代に遡る。

この時代から支配していたのが朝倉氏、
この谷合いは東西南は山に囲まれ、
北には足羽川が流れるまさに天然の要害だった。
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この地をめざし多くの人が集まったのが応仁の乱、
荒廃した京都から天然の要害に多くの人たちが逃れてきた。

その中には多くの公家、高僧、文人、学者が含まれ、
この地で華やかな京文化が開花する芽となった。
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戦国の世、朝倉孝景の頃にこの地は全盛期を迎え、
1万人を超える人々が暮らすまでとなっていった。

暗転したのは1568年、
将軍足利義秋が一時身を寄せた朝倉氏を見限って
美濃の織田氏を頼ったことである。

1573年朝倉氏は織田を迎え撃つも敗れ大野に背走、
織田信長は一乗の里を焼打ちにした。
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その後は一向一揆等の舞台となったが
越前八郡を賜った柴田勝家は
本拠を北の庄に移したことで一乗谷は歴史の舞台から消え去った。

400年近くも忘れ去られていた越のお里が
陽の目を見たのは1967年に始まった発掘調査。
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以来、この里が予想を遥かに上まわる規模を持った
都であったことが徐々に明らかとなってきた。

私が最初にこの地を訪ねたのは1990年後半、
その頃は未だ福井の奥田舎、ひなびた風情の中
にかつての北の京の片鱗は正直言って肌で感じなかった。

ところが、今回の訪問では
遺跡発掘が驚異的に進んだこともあって
北の京の雅な面影が実感となって感じられた。
c0135543_1084110.jpg

同時に遺跡発掘が如何にロマンを掻き立てるものかが良く理解できた。
c0135543_1091085.jpg

インディアナ・ジョーンズではないが
考古学にのめりこむ人の心境が大いに理解できた一乗谷訪問だった。
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# by shige_keura | 2017-05-03 10:51 | | Comments(0)



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