Top
カテゴリ:旅( 439 )
早春の熱海 ~熱海のローマ風呂~
昔々の事だが、そのころ熱海と言うと
何故か大野屋のローマ風呂が有名だったような記憶がある。

それは中学校の頃だと思うが、
偶々、大野屋のローマ風呂に入ってみた所、
普通の大浴場で拍子抜けしたことを覚えている。

さて、熱海は気候温暖にして良質の温泉が豊富とくれば
古くから多くの実業家、政治家等の別荘が軒を連ねていた。

中でも三大別荘と言われたのが
岩崎弥太郎の「岩崎別荘」(現在は非公開)、住友別荘(現存せず)に並び
唯一見学できるのがここ「起雲閣」である。

この別荘の特徴は時代と共に持ち主が替り、
その都度新たな増改築を行っているので
大正・昭和ロマンの香り豊かさを和洋折衷の建物に
たっぷりと味わえるところである。

この建物が最初に出来たのが大正9年(1919)、
持ち主は当時海運王と言われた内田信也が
母の静養のための別荘として新築したものだ。
c0135543_2265949.jpg

このときは純粋の和風建築であり、
それは薬医門の名前の表門(鎌倉・室町時代の武家・公家屋敷に使われた様式)や
麒麟の名前が付けられた凛とした佇まいの和室に見てとれる。
c0135543_2273024.jpg

尚、和室の壁の特徴的な群青色は
後に旅館となった時に、
持ち主の石川県出身の桜井兵五郎によって手が加えられたものだ。

桜井兵五郎は当時、石川県、金沢郊外の湯涌温泉に
東洋一と謳われた「白雲楼」ホテルの持ち主として名高い人物である。

               (金沢市郊外、湯涌温泉にあった白雲楼ホテル)
c0135543_22878.jpg

10年ほど前に金沢に暮らしていた頃、二、三度訪れた折、
今や廃墟同然となった「白雲楼」を見て残念な想いをしたものだった。

話を「起雲閣」に戻そう。

時は大正14年(1925)、持ち主が変わった。

新たな持ち主は青山にある「根津美術館」で有名な根津嘉一郎、
彼は政治家として東武鉄道の社長等、実業家としても名を馳せた人物だった。
c0135543_22112953.jpg

根津の時代に「起雲閣」は洋風の味付けを加えていき、
三代目の持ち主で旅館として活用した
桜井兵五郎の手で、よりスケールを増していった。
c0135543_22124154.jpg


c0135543_221889.jpg

この時代にここで筆を執った文豪は
山本有三、志賀直哉、太宰治、舟橋聖一、谷崎潤一郎、
三島由紀夫等枚挙にいとまがないほどだ。
c0135543_2213576.jpg

そして、舟橋聖一が離れの「孔雀の間」で執筆した「雪夫人絵図」は
日本が誇る巨匠、溝口健二の手で映画化されるときに、
ここの洋館にあるローマ風呂を使って撮影された。
c0135543_22145581.jpg

出演は上原謙、木暮実千代、久我美子等々で、
由緒正しき家柄の久我美子の入浴シーンは特に話題を呼んだものだった。
c0135543_2215401.jpg

このローマ風呂は肌触りやすべり止めを考慮して
床は木製のタイルを使っているのだが、
一見したところ石と見まごうほど精巧に造られている。
c0135543_22172235.jpg

「起雲閣」のローマ風呂は
中学時代に見た大野屋とは比較にならぬほどの質感の高さを誇示していた。
[PR]
by shige_keura | 2017-01-27 13:53 | | Comments(0)
早春の熱海 ~不老長寿~
ここは熱海梅園から緩やかな坂を下って
10分ほどの所にある「来宮神社」。
c0135543_21363368.jpg

最近はパワースポットして人気が高く
初詣の時期は神社境内が人の波となるそうだ。
c0135543_2137277.jpg

何故人気が高いか、
その訳はこの神社に祀られている楠の大樹にある。

樹齢推定2,000年を超えると言う巨木の楠、
江戸時代の末期まで、ここは「木宮明神」と名付けられていた。

これだけの樹齢を誇れば当然ながら
ご利益は「不老長寿」「無病息災」ということになるので
参拝客も年々増加しているとのことである。
c0135543_2138234.jpg

樹木の大きさは幹の周りで決まるが、
ここの楠の太さは23.9メートルで、
これは日本で二番目、本州ではナンバーワンの大きさを誇っている。

巨大な楠の左の幹は完全に死んでいるが
右側の巨木は今なお成長を続けている。
c0135543_2139680.jpg

根元が盛り上がっているようにも見える幹は
さながらモンスター、大魔神のように吾を圧倒し、
2,000年と70余年の差を実感させられる。

この神社には第2大楠と呼ばれる御神木もある。
c0135543_21401756.jpg

それはこの楠が雷で片側を削り取られ
幹の殆どが抉られているにもかかわらず
未だに生き続けているためである。

「成長のエネルギーを木の裏側で実感してください」、
との解説文に従って裏側に回って見ると、
確かに幹の中身は殆ど空っぽである。
c0135543_214118.jpg

これは成長のエネルギーと言うよりも
良く言えば、骨と皮だけになっても飽くなき生への執着心、
端的には、最後のあがきのようなものを感じてしまった。
c0135543_21413475.jpg

因みに日本一の巨樹は鹿児島県の蒲生八幡神社にある
同じ楠で推定樹齢は1,500年と来宮神社の巨木より若いが
幹の太さは24.2メートルと僅かながらに凌駕している。

南の土地で育っているだけに成長も早いのだろうか。
[PR]
by shige_keura | 2017-01-26 21:57 | | Comments(0)
早春の熱海 ~梅は咲いたか・・・・~
「梅は咲いたか、桜は未だかいな、
 柳ゃ、なよなよ風次第、山吹は浮気で色ばかり
 しょんがいなー、しょんがいな」

江戸時代、お座敷で流行った端唄、
「しょんがえ節」の一節である。

お座敷で好まれたものだけに
芸妓さんを花にたとえている。

梅は若い芸妓、桜はちょいと年増の姐さん、
柳は移り気芸者、山吹は実を結ばない浮気な芸妓となる。

又、季節の到来も意味しているのは
梅が咲いたけど、桜は未だだろうなの文句でも明らかである。

この画像は今年の1月19日熱海梅園前、
何と!既に桜は満開である。
c0135543_2192782.jpg

梅園の梅は木の種類によっても違うが全体的に七、八分咲き。

ということは、熱海では
「桜は咲いたが、梅はまだかいな」となってしまう。
c0135543_21111859.jpg

この桜は1965年熱海桜と命名され、
その後1977年に熱海市の木に指定され、
日本で一番早く開花を迎える桜である。

この桜はインドが原産で
日本に入ってきたのは明治4年ごろに訪れた
イタリア人によってとされている。

花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特徴であり、
寒緋桜と山桜の雑種とされている。
c0135543_21121875.jpg

熱海梅園から坂を下り来宮神社を過ぎて
更に坂を下った市街地に流れる糸川の両側が
熱海桜の見どころである。
c0135543_21151010.jpg

花は満開、次から次へと黄緑色をしたメジロが
蜜をついばみに枝から枝へと飛び回っている。
c0135543_21154980.jpg

日本では「河津桜」が早咲きとして有名だが
実は「熱海桜」の方の開花が早く
今年は12月末に花がほころび始めた。

昨年末に花が咲き始めた桜が
今もなお満開で色鮮やかに咲き誇っているのはどういうわけか?
c0135543_21182264.jpg

通常の桜は満開時期が短く
「三日見ぬまの桜かな」という言葉も生まれているのに
熱海桜の満開が長いのは何故だろう。

その理由は一本の枝に早期に咲く花芽と
遅く出てくる花芽があるからだ。

早期に咲く花が散るのを待つように
第二弾の花芽が膨らんで花を咲かせる。

いずれにせよ、梅見は想定内だったが
思わぬ桜見物が出来るとは。
c0135543_21132928.jpg

「梅は咲いたし、桜も満開じゃ、
 ええじゃないか、ええじゃないか!」。
[PR]
by shige_keura | 2017-01-25 21:19 | | Comments(0)
早春の熱海 ~紅白に黄色~
熱海と言う言葉から連想するのは
別府、草津等と同じく、温泉であるのが一般的だろう。

歴史をひもとくと1500年ほど前に
海中から熱湯が噴出したことが町の名前である熱い海、
熱海の由来であり、それが温泉に繋がっている。

江戸幕府を開いた徳川家康も一週間余り
熱海に湯治滞在したとの記録も残っている。

明治18年(1885年)には日本初の温泉療養施設が
噏滊館(きゅうきかん)の名前で当地に造られた。

その翌年に療養所に滞在する人々の自然浴を促進させるために
造られたのが熱海梅園の起こりであるそうな。

1月19日、天気予報が良いほうに外れ
雲間から日が拝める陽気。
c0135543_1459245.jpg

熱海への一泊旅行の折に
梅の具合は如何なものだろうかと梅園を訪れた。
c0135543_150525.jpg

事前に調べたところでは未だ5分咲きとの話だったが、
どうしてどうして、白梅、紅梅見事な咲きっぷりで
我が目を楽しませてくれた。
c0135543_151280.jpg

とりわけ見事だったのが堂々たる蝋梅が
香りと共に黄色い艶々とした花を満開にさせていたことだ。
c0135543_151399.jpg

蝋梅は名前に梅の字があるが為に
梅の仲間(サクラ属)と誤解されることが多いが
梅とは違う仲間である。
c0135543_1523531.jpg

蝋梅の源を辿ると楠であり原産は中国、
日本には17世紀ごろ伝来してきたと言われている。

伝来してきた国の名前から
「唐梅」とも日本では呼ばれているが
中国の正式名称も蝋梅である。

この名前は本草綱目によれば
半透明で艶のある花弁が蝋細工のようでもあり、
且つ、蝋月(旧暦12月)に咲くからだとある。
c0135543_153206.jpg

c0135543_1541273.jpg

c0135543_1545632.jpg

艶々とした蝋梅、紅白の梅、
春の訪れを知らせる梅林散歩は
まっこと、気持ち良きものでありました。
c0135543_155238.jpg

[PR]
by shige_keura | 2017-01-23 15:08 | | Comments(0)
ふるさと独歩行 -師走の金沢―
東京生まれの私にとって6年の間
暮らした金沢は第2の故郷のようなものだ。
c0135543_22364020.jpg


c0135543_22371762.jpg

c0135543_2238574.jpg

21世紀美術館を巡った後は、
まずは腹を満たさねば行軍には耐えられぬ。

そうかといって余り重たいものを食べてはいけない。

何故なら夕食は金沢郊外で「マタギ料理」、
鳥獣の肉が待ち構えているからだ。

こういう時に最適な店が香林坊裏にある
手打ちそば「藤井」である。
c0135543_22385726.jpg

古都金沢に相応しい小体な蕎麦屋、
ここでは「せり蕎麦」とか「牛蒡天蕎麦」等、
気の利いた品を出してくれる。
c0135543_22394215.jpg

昼食後の一人歩き、
自然と足が向かったのは兼六園。
c0135543_2241752.jpg

c0135543_224235.jpg

時々小雨がぱらつく陽気、
ひっそりとした庭園は雪吊りの冬構え、
雨合羽で庭の手入れを黙々とこなす人たちが目につく。
c0135543_22424068.jpg

一角に場違いのような名前が見える。
c0135543_22433343.jpg

その名も「松の傷」、
松の廊下の刃傷事件とは何ら関係ない。

第2次大戦末期、飛行機燃料が不足してきた日本
苦肉の策が、松の幹を削って松脂から油を搾取しようとしたもの。
c0135543_22441013.jpg

ここまでして、戦を続けたとは、
今となっては信じがたい話である。
c0135543_22451141.jpg

兼六園から真正面に見える卯辰山の一角に
我々の暮らしたマンションが雨にかすんで見える。

それはすでに15年ほど前の出来事となっている。
c0135543_22455383.jpg

金沢の文化、歴史の奥深さを感じながらの6年間は貴重な体験となっている。
c0135543_22463934.jpg

兼六園から金沢城を結ぶ石川橋、
今はひっきりなしに自動車が往来する道路はかつての百間堀、
スケールの大きさが実感となって迫ってくる。
c0135543_22472634.jpg


c0135543_2248175.jpg

城を抜けると今年の3月に再現された玉泉院丸庭園。
c0135543_22484416.jpg

これは三代藩主前田利常の代に作られた庭で
兼六園がお客をもてなす庭だったのに対し、
おもに藩主の内庭的色彩が強かったとされている。
c0135543_22492461.jpg

ホテルに向かう手前が尾山神社、
当然お参りには欠かせぬところである。
c0135543_22501875.jpg

境内の母衣を纏った前田利家の騎馬像と
金色に輝く勝ち兜を今回もじっくりと見物した。
c0135543_2250473.jpg

神社には我が家と一族の幸せと
騎馬像には暮れの有馬記念必勝を祈願したことは言うまでもない。
c0135543_22513658.jpg

[PR]
by shige_keura | 2016-12-29 09:00 | | Comments(0)
「うまくち」は400年の歴史 -師走の金沢ー
今や定番化している師走の金沢旅行。

ブリ、香箱蟹、のどぐろ等の海の幸、
               (「千取鮨」の香箱蟹)
c0135543_21541083.jpg

熊、鴨、イノシシ、鹿等の「マタギ料理」
               (金沢郊外、「つばき」の熊の刺身)
c0135543_21553155.jpg

そして東茶屋街のフランス料理を今年も満喫した。
               (東茶屋街のフレンチ「ロベール デュマ」)
c0135543_21564159.jpg

食べることが主目的の旅だが、
食べるためには適度な運動も必要となってくる。

そこで、今回訪れたのが金沢港そばにある大野の町である。

ここは、今や世界的に好まれている
日本の伝統の味である醤油の五大産地として栄えた所なのだ。

五大産地とは千葉県の野田と銚子、
兵庫県の龍野、香川県の小豆島と、ここ大野を指す。

大野の醤油づくりは
加賀藩3代藩主である前田利常が
元和年間(1615~1623)に商人の直江屋利兵衛に
食文化向上と藩の財源確保の為に命じたことで始まった。
c0135543_2159540.jpg

利兵衛は紀州から醸造技術を学び
大野を醤油造りの町として育てていった。
c0135543_2203958.jpg

同時に、加賀藩は参勤交代等、
機会あるたびに街道筋の宿場で大野醤油の宣伝を行った。

最盛期には60軒の醤油醸造元が軒を連ねていたが
徐々に衰退したものの今でも22軒が
独特の大野醤油の味を産み出している。

大野醤油は食文化豊かな加賀料理と共に発展したと言っても良いだろう。

その味は普通の醤油に旨味を取り入れた
「うまくち醤油」として好まれている。
c0135543_2211876.jpg

今回訪れた「直源」の創業は文政8年(1825年)、
屋号は直江屋の源との意味合いを持っている老舗中の老舗である。
               (「直源」の昔の玄関)
c0135543_2215150.jpg

初めて経験した醤油テースティング、
その味は微妙に異なっている。
c0135543_223684.jpg

甘味が薄い濃い、塩味が効いている効いていないだけではなく、
味の深みがそれぞれに違う。
c0135543_2234878.jpg

たかが醤油と言うなかれ、
加賀の食文化を支えてきた大野醤油
だてに400年の歴史を重ねてきただけではない。
[PR]
by shige_keura | 2016-12-28 08:47 | | Comments(0)
熊本・天草の旅 -殿さま気分-
ここは熊本県上益城郡、
町の喧噪とは全く無縁な場所にあるお店、「やな場」である。
c0135543_17253228.jpg

店の名前が示すように
簗場で採れた鮎をはじめとした川魚を供する所だ。
c0135543_1727234.jpg

店の入り口から変哲もない
侘しげな田舎の居酒屋を思い浮かべていたのが
足を踏み入れてびっくりした。
c0135543_17275085.jpg

川を囲むように情緒豊かな茅葺のあずまやが
我々を迎え入れてくれた。

なにやら由緒ありげな雰囲気、
それもそのはず、昔は代々の肥後の領主である
細川候がこの地で旬の鮎を楽しんでいたのだ。

細川家が小倉から熊本にお国替えとなったのが寛永年間、
その時の領主である細川忠利は、
早くもここで旬の味覚に舌鼓を打っていた。
c0135543_17291888.jpg

簗場とは川の一部に木や竹で組んだ堰を設けて
流れを一か所(簗口)に引き込み、
そこに竹を編んだ簾を敷いて落ちてくる魚を取る漁法であり
万葉集にも歌われているそうな。
c0135543_1730674.jpg

私自身はこのような風雅な雰囲気の中で
川魚を味わうのは初めてであるため貴重な体験となった。

先日来の雨模様の為、
川は濁流となり水かさも多く、
さらに11月に入って鮎は殆ど採れなくなってしまっていた。

しかしながら、お店の生簀のなかの
落ち鮎の豊かな味を十分に満喫した。

               (鮎の塩焼きと味噌焼き、刺身に鮎飯、お吸い物、ソーメン)
c0135543_17305743.jpg

               (びっしりと卵の入った鮎は濃厚な味)
c0135543_17323181.jpg

そして今回は9月以降に始まった
川蟹(藻屑蟹)を賞味することが出来た。

               (川に仕掛けた箱の中から蟹を取り出す)
c0135543_17345956.jpg

c0135543_17362469.jpg

名前の由来は蟹のハサミの部分に
藻がびっしりとついているところからなのだが、
無骨な体型に似合わず味はとても濃くて美味しい。
c0135543_17371373.jpg

                (左の蟹のハサミに黒く見えるところが藻)
c0135543_17375284.jpg

特にミソがねっとりと豊潤で、
吾等三人、押し黙って蟹征伐に全力を傾けた。
c0135543_1742526.jpg

先ほどまでの雨が上がり時々薄日が差すなか、
一時の細川の殿様気分に浸った。
c0135543_17401327.jpg

「殿、お駕籠の用意が出来ましてござる」

「そうか、よしよし、ゆるりと参ろう」
[PR]
by shige_keura | 2016-12-01 22:28 | | Comments(0)
熊本・天草の旅 -腹切りも悪くなか!-
好物の鰻のかば焼き、
関東風と関西風には著しい違いがある。

まずは鰻のさばき方だが、
関東風は背開きに対し関西風は腹から開いていく。

江戸の昔、武士が中心であった東京(江戸)は
腹から切ることを切腹に見立てて嫌ったのが背開きになったと言う。

もう一つの大きな違いが関東風は蒸して脂を抜くのに対し、
関西風は蒸さずに焼いて脂を落とす。

その結果、関東の蒲焼はふっくらとしているのに対し
関西のものは若干パリッとしている。

私は蒲焼ならば今まで断然に関東派、
関西風の蒲焼には魅力を感じていなかった、
この人吉の「上村」の蒲焼を食するまでは。
c0135543_13561139.jpg

上村の鰻はステーキで例えればアメリカ風ビーフと言えよう。

一方の関東の蒲焼は和牛霜降り肉のステーキとなるだろう。

すなわち、「上村」の鰻の蒲焼はヴォリュームたっぷりなのだが
驚くほどに食べられてしまう。

重箱を開けると肉厚の蒲焼が4切れ,
目に飛び込んでくる。
c0135543_13572273.jpg

うっすらとタレを施し、焦げ目がついた蒲焼を
ご飯と一緒に腹にかっこむと・・・・・・、
ご飯の中に3切れの蒲焼が現れてくる。

都合、7切れの蒲焼が雑作もなく腹におさまり、満足、満足。

知る人ぞ知る名店、有名人の来訪も多い。

その中には我が学校の大先輩である
小沢昭一さん、加藤武さんの色紙も飾られている。
c0135543_13581372.jpg

小沢さんが主宰となって立ち揚げたのが芸能座。

立ち揚げ公演「清水次郎長伝伝」に
次郎長役で主演したのが盟友の加藤さんである。
c0135543_13584591.jpg

そのほか、山口崇、木の実ナナ、山谷初男等を引き連れて
九州、飯塚の「嘉穂劇場」公演の折に立ち寄ったものだろう。

恐らく巡業の合間にスタミナ補給、
この店に立ち寄ったに違いない。
c0135543_13592632.jpg

先輩諸氏が訪れ、色紙を残した鰻の名店で
秘伝の蒲焼を楽しむことが出来たとは・・・、
これだから人生は面白い。
[PR]
by shige_keura | 2016-11-30 22:41 | | Comments(0)
熊本・天草の旅 -焼酎街道の女もっこす-
「肥後もっこす」とは熊本県の県民性を表した言葉。

「津軽じょっぱり」、「土佐いごっそう」と並び
日本の三大頑固県民性を表す言葉だ。

熊本県が生んだ「もっこす」の代表的人物が
プロ野球の読売巨人の中心として活躍
その後無敵のチームをを率いた川上哲治であろう。

彼の現役時代のニックネーム「打撃の神様」、
監督となってからの9連覇達成までの足取り、
共に「初心貫徹」の「肥後もっこす魂」
頑固さが生み出した輝かしい財産と言えよう。

               (人吉市にある川上哲治記念球場)
c0135543_933481.jpg

川上選手の生まれは人吉市、
ここは米焼酎として名高い球磨焼酎の酒蔵が並び
焼酎街道と呼ばれている。

川上と同じ人吉市、「焼酎街道」の一角に
昔ながらの製法にこだわりを持つ、
地域唯一の女杜氏のお店「寿福酒造」がある。
c0135543_937166.jpg

数あるライバルのお店がすべて機会製法に切り替わった今も
息子さんと二人で汗水たらし焼酎を作っている。

彼女、寿福絹子さんこそ「肥後もっこす」の代表に相応しい。

今回お邪魔した時は丁度仕込みの大事な時、
それにもかかわらず彼女は親切に現場を紹介してくれた。
c0135543_9385144.jpg

もろ肌脱いで炊き立てのお米をかき混ぜている息子、
これまた額に玉の汗を浮かべ手伝っている母が寿福絹子さん。
c0135543_939326.jpg

漸く一息ついてお米にお布団をかぶせ
隣の部屋で一晩寝かせ次の工程にかかる。
c0135543_9402371.jpg


c0135543_9473272.jpg


c0135543_9481338.jpg


c0135543_949182.jpg

お茶を飲みながら彼女は言う。

「もー、へとへと・・・しんどいねー、
 だけどね、あたしゃ、どうしても手作りにこだわりたいんよ。
 焼酎は私の子供ばい、愛情かけんといけんとね」。

 今日はこれから出前の鰻で力つけるんよ、
 何!!あんたたち、鰻食べてきたと!!
 美味しかったでしょう、上村の鰻」

汗が光る絹子さんの顔は疲れているに違いないが
生き生きと輝いていた。
               (若かりしころの絹子さん)
c0135543_941626.jpg

続いて出る言葉が彼女らしい。

「冥途の土産と思って買ってくんさい、送料はただにしとくから」。

アルコール飲料の中で、私が好きなベストスリーは
ワイン、日本酒、ウイスキーであり
焼酎の優先度はあまり高くない。

更に、今年の3月に立ち寄った時に購入した
焼酎が、まだ家に残っている。

にもかかわらず、新たに2本の焼酎を買う自分が居た。
c0135543_9443330.jpg

熊本復興に一役かわにゃいけん・・・・・・、
というよりも、女肥後もっこすの心意気にのらにゃいかんばい。
[PR]
by shige_keura | 2016-11-29 13:24 | | Comments(0)
熊本~天草の旅 -四郎の呪縛―
天草と言えば誰しもが思い浮かべるのが天草四郎、
若くしてキリシタンを率い
幕府に反旗を翻した「島原の乱」で討ち死にした悲運のヒーローである。

天草に足を踏み入れたと同時に目立つのが天草四郎関係の宣伝、PR。
c0135543_974258.jpg


c0135543_98585.jpg

「天草キリシタン記念館」、「天草四郎メモリアルホール」、
「天草パールセンター」、「藍のあまくさ村」、「鬼池港」等々、
至る所に彼の像が建立されている。
c0135543_9101374.jpg


c0135543_9105794.jpg

天草の観光は天草四郎一色、
すべては彼に委ねられているようだ。
c0135543_9111768.jpg

それでは、この作戦が功を奏しているかというと首を傾げざるを得ない。

まず第一に天草四郎の実態が歴史のなかで、
解明されていないことが多すぎるのである。

江戸初期のキリシタン信奉者
実は豊臣秀頼の落胤をはじめ、
出生地についても天草諸島、熊本の宇土、或いは長崎と諸説ある。

               (幕府側の拠点となった富岡城跡)
c0135543_9123982.jpg

1621年或いは1623年に生まれ、
1637年の島原の乱のときに
十字架を掲げてキリシタンの総大将を務め原城で討ち死にしたというのだが・・・・。

十代の前半にして軍を率いることが現実的でないとの疑問もあるし、
そもそもこの戦いがキリシタンと幕府の争いではないとの説が今や一般的なのだ。

「島原の乱」は領主の圧政に立ち上がった単なる農民一揆であり、
そこに攻める方も守る方もキリシタンを担ぎ出したという背景がある。

一揆側としては奇跡を起こしたキリシタン信者を大将に掲げることで
聖なる戦いとの色彩から、より大きな力が湧いてくる。

一方の徳川幕府は家光の時代、
まだまだ徳川は盤石とは言えなかった。

従って、どこかで幕府の強大な力を見せつける必要があった。

そこでキリシタン嫌いの家光が考え出したのが
キリシタン弾圧に名を借りた一揆側と豊臣残党の殲滅作戦だった。

確かに一揆側には豊臣の流れを汲む者も居たという説がある。

従って、天草四郎の名前を売れば売るほど
話が嘘っぽく思われてくる。

しかも天草四郎には悲劇の影、暗いイメージが付きまとっている。

               (大江天主堂)
c0135543_9163229.jpg

それは天草の持つ風光明媚な自然と
余りにも大きなギャップを感じさせてしまう。

               (大江天主堂にあるルルドの聖母)
c0135543_9172755.jpg

天草四郎を売れば売るほど不自然さは強調され
天草の全体イメージを暗くしているようにも思われた。

               (埼津教会)
c0135543_9192465.jpg

「脱天草四郎」こそ今の天草が真剣に考えなければいけないのではないだろうか。

               (富岡城跡より天草諸島を見下ろす)
c0135543_914761.jpg

天草諸島が持つたおやかな自然、
豊かな海の幸、山の幸をもっともっとアピールするべきである。
[PR]
by shige_keura | 2016-11-28 09:54 | | Comments(0)



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
→過去のブログを見る


ホームページ 



LINK 


LINK FREE

このブログの写真・テキストの無断使用はお断りします。

(c) 2007 shige_keura. All rights reserved.