Top
カテゴリ:旅( 439 )
九州6泊7日 -椿の浜で炉端焼き-
五島列島は椿の名所、
ツバキ油の生産量も伊豆大島に続き全国第2位、
「西の五島、東の大島」と言われている。
c0135543_13272579.jpg

椿の花の盛りは過ぎたとはいえ、
島のあちらこちらに椿の花の絵やマークが描かれている。
c0135543_1328767.jpg

ここは、福江島、サンゴの白さが目に眩い
香珠子海岸を見下ろす高台に椿茶屋がある。
c0135543_13284236.jpg

島を離れる前に自然を愛でながら
炭火焼の昼食を楽しむ趣向だ。

店の入り口にはカラフルな貝が敷き詰められていた。
c0135543_13292666.jpg

その名も「緋扇貝」、房総半島の南に生息するので
関東でも目にすることが出来るが、
ここの緋扇は姿かたちが実に立派で見とれてしまう。

この貝は「帆立貝」と同じ種類であり、
味もほとんど違いがないようだ。
c0135543_13305291.jpg

緋扇貝、鯵、鶏手羽先、豚肉等の炭火焼と
おにぎりと饂飩で腹を満たした後に向かったのが隣の塩づくり。
c0135543_13313290.jpg

今まさに竈に火を焚いて水分を蒸発させているところだ。
c0135543_1332644.jpg

すでに完成した粗塩はキラキラと光り輝いていて真に美しい。
c0135543_13323291.jpg

九州、福岡の焼き鳥屋老舗の特注品とか、
焼き鳥の旨さが容易に想像できるというものだ。
c0135543_1333242.jpg

そばの売店で売っていた塩ソフトに思わず手を伸ばしペロリペロリ。
c0135543_13333310.jpg

口をさっぱりさせた後は一路福江の港から長崎に戻る。
c0135543_13341074.jpg

これで椿の島ともお別れである。
[PR]
by shige_keura | 2016-04-07 08:40 | | Comments(0)
九州6泊7日 -五島列島とキリシタン-
私が最初に五島列島の名前を知ったのは大相撲の世界からだった。

柏鵬全盛時代に粘りの相撲で頭角を現してきたのが
出羽の海部屋の佐田の山だった。
c0135543_1021896.jpg

無骨なまでの生真面目な相撲に好感を抱いたのだが、
そこで知ったのが彼の出身地である五島列島という島々の存在だった。
c0135543_10244350.jpg

従って、当時は五島列島がキリシタン・キリスト教と
深い関わり合いを持っていたことなどは露にも知らなかった。

五島列島はその昔の平安時代にこの地を訪れた中国人が
海に五つの島が浮かんでいるように見えたのがその名前の由来とされている。
c0135543_10222772.jpg

しかし、島の数は五つどころではない。

五島列島とは長崎から西100キロの洋上に点在している140余りの群島の総称である。

五島列島を大きく分けると上五島と下五島に分けられるが、
今回訪れたのはキリシタンを深い関係を持っていた下五島の三つの島だった。
c0135543_10252661.jpg

具体的には五島列島最大の島である福江島と
奈留島、久賀島であり、面積と人口は次のようになる。

          面積        人口
福江島     326平方キロ   37,000人
奈留島     24平方キロ     2,600人
久賀島      0.5平方キロ      380人

続きを読む
[PR]
by shige_keura | 2016-04-06 08:39 | | Comments(0)
九州6泊7日 -007の島の保存は??-
今回の旅行で最も楽しみなもののひとつであった
軍艦島訪問が実現した。
c0135543_994058.jpg

長崎から目と鼻の先の島なのだが
海が荒れることが多く、欠航の確立が5割を超えると聞いていたので
島に渡れるだけでも九州に来た甲斐があったというものだ。
                (海が穏やかな今日も波しぶきが船に入りこんでくる)
c0135543_9104042.jpg

島の正式名称は端島であるが
島の姿かたちが軍艦に似ているので「軍艦島」の名前が浸透していった。

確かに、その昔、島が活動しているときの
夜間の写真はまるで海を航行する軍艦そのものである。
c0135543_923483.png

軍艦島の歴史は1810年ごろに
石炭が発見されたことで始まったと言って良いだろう。

明治3年(1870)天草の住民によって石炭採掘が開始されたのちに、
島は鍋島藩の手を経て明治23年(1890)三菱が保有するに至った。

島で採れる良質な石炭は
主に八幡製鉄の製鉄用原料炭として使われたこともあって
多くの石炭採掘関係者が小さな島に群がるようにして住み暮らしていた。

島の周囲は1,200メートル、
面積は僅か65,000平方メートルの島に
最盛期の昭和35年(1960)には5,000人を超える住民が生活していた。

これは平方キロ当たりの人口に換算すると83,600人となり
当時の東京23区の9倍に相当する過激な人口密度だった。
c0135543_9122917.jpg

島は小さいがそれ自体がひとつの生活圏を形成していたので
幼稚園、小学校、中学校、病院は勿論のこと
テニスコート、パチンコ屋のスポーツ娯楽設備、
更には遊郭までもが存在していたという。
c0135543_9125142.jpg

採掘坑道は地下600メートルまで直線で掘られ、
そこから45度の角度で1,000メートルの深さまで達していた。
c0135543_84337100.jpg

坑道は途中から沖合に伸びていき、
島の沖合、約2キロほどのところに見える
三ツ瀬と呼ばれている岩礁の地下まで坑道は伸びていた。
c0135543_8472731.jpg

海の下、1000メートルの地中での炭鉱作業、
想像するだに身震いのするほど怖ろしい仕事だ。
               (左上にかすかに見えるのが三ツ瀬)
c0135543_915487.jpg

その後公害問題で石炭需要は減少の一途をたどり
昭和49年(1974)閉山となり人の住まぬ廃墟となった。
c0135543_9171815.jpg


続きを読む
[PR]
by shige_keura | 2016-04-05 08:50 | | Comments(0)
九州6泊7日 -異国情緒-
長崎で異国情緒を味わう場所のひとつとして
名前が挙がるのが「唐人屋敷」である。

「唐人屋敷」とは江戸時代の鎖国政策で
長崎に作られた中国人の居住区のことを言う。

1635年、江戸幕府は中国商船の入港を長崎だけに限定するが
キリスト教徒ではない中国人は長崎のどこでも住むことを許された。

しかしながらその後、1680年代に入り
中国人の渡航が急増し密貿易も横行したこともあって
幕府は中国人の居住区を特定の場所に限定することとした。

こうして1689年、当時の幕府所有の薬園地にできたのが唐人屋敷である。

オランダ人が住む出島に比べると取り締まりは緩やかだったとはいえ
出入り口に番所が設けられ唐人の単独外出は許されなかった。

敷地内には数十棟の長屋が建ち並び
多い時には約2,000人の唐人が生活していたという。
c0135543_11282379.jpg

1859年、日本開国を機に唐人屋敷から多くの人々が離れ
敷地は荒れ果て1868年に解体、179年の歴史の幕を閉じた。
c0135543_11305031.jpg

現在は当時の面影を残す4つの建物が残っている。
c0135543_11311969.jpg

土神堂
c0135543_11314871.jpg

1691年唐人屋敷内に滞在していた船主たちの願いで
この敷地内に最初に作られたお堂。
c0135543_11323152.jpg

天后堂
c0135543_11332818.jpg

海の守り神、女神「媽祖様」を祀るために
1736年南京地方の唐船主たちによって建立されたお堂。
c0135543_11335451.jpg

観音堂
c0135543_11342889.jpg

1737年に福建出身の唐船主によって建立されたと伝えられている。
c0135543_1134544.jpg

福建会館天后堂
c0135543_11352644.jpg

唐人屋敷が解体されたのちに、1868年、
福建省出身の貿易商たちの会合の場として設けられた。
ここにも「媽祖様」が祀られており、
ランタンフェスティバルの時には、
ここから興福寺に運ばれていく。
c0135543_11355528.jpg

緩やかな坂に今でも残る異国情緒たっぷりの
唐人屋敷散策も、また楽しからずや。
c0135543_11363461.jpg

[PR]
by shige_keura | 2016-04-04 12:53 | | Comments(0)
九州6泊7日 -長崎料理と言えば-
長崎の料理と言えばお手軽なところでは
皿うどん、ちゃんぽんになろうが、
卓袱料理(しっぽく)の発祥もここ長崎である。
c0135543_16473313.jpg

            江戸町で食べたとても美味しい皿うどんとちゃんぽん
            牡蠣をはじめアサリ、海老、イカ、練り物が効いている
c0135543_16483199.jpg

西洋料理でもなければ中国料理でもないし日本料理でもない。
c0135543_1653018.jpg

なんとも訳の分からない卓袱料理は
和風、オランダ風、中華風の要素が入っているので
「和華蘭料理」とも言われている。

名前自体がこの料理は「わからん」と言っているのだ。

一体いつごろこの世に現れたのかも謎に包まれている卓袱が
文献に登場してきたのが1761年のことだ。

このとき長崎に入国していた清国人が
長崎商人を招いて宴会を行ったのが「八遷卓宴式記」として残っており、
これが卓袱料理を意味していると解釈されている。

文化・文政年間(1804~1829)江戸で大人気となったのだが、
それはひとつのテーブルを囲んで
大皿で取り分けて食べるという中国式スタイルの
物珍しさに因るところのものだった。

その後、江戸・京都での人気は廃れた卓袱料理は
いつの日か発祥の地である長崎で復活し
ご高級当地料理として今日に至っている。

現在の卓袱料理を簡単に言ってしまえば
中国料理、西欧料理に日本料理が入り混じった宴席コース料理である。

これじゃ「和華蘭」(わからん)と言われても、
これいじょう上手く説明できない。

長崎の卓袱料理の横綱と言えば
丸山に今も威風堂々とした店を構える「花月」となる。
c0135543_1654713.jpg

この店は寛永19年(1642年)日本三大遊郭と言われた丸山に
「引田屋」の名前で遊郭として誕生した。
c0135543_16545669.jpg

その後「花月」と名前を代えた料亭となり
昭和35年には全国でも珍しい史跡料亭として
丸山の地に周囲を睥睨するかのようにそびえている。

敷居が高いことと、2万円と言われるお値段で尻込みする一方
卓袱料理は味わってみたい。

続きを読む
[PR]
by shige_keura | 2016-04-03 21:49 | | Comments(0)
九州6泊7日 -長崎・名刹二寺-
長崎と言うとグラバー邸、大浦天主堂、浦上天主堂等々
西洋の文化・歴史に目が向きがちだが
実は仏教関係の名刹がいくつも存在している。

中でも三福寺と言われている
興福寺、崇福寺、福音寺が名高いのだが、
今回は二つの名刹の姿に魅了された。

東明山・興福寺は日本最古の黄檗宗の寺院であり、
寛永元年(1624)中国の僧、真円により創建された。
c0135543_1474895.jpg

当時の信徒に浙江州、江蘇州出身者が多かったため南京寺とも呼ばれていたし、
象徴のひとつ、雄大な朱塗りの山門から「あか寺」とも称せられた。
c0135543_1483664.jpg

この寺の特徴のひとつが
黄檗宗開祖隠元禅師と密接な関わり合いを持っていることだ。

承応3年(1654)当寺の3代目の住職として招かれたのが隠元禅師その人であり、
彼は1年後に京都の宇治に移り
黄檗宗・大本山の万福寺を創建していった。

南の寺を訪れるたびに
蘇鉄が南国情緒としての味わいを利かせていることに改めて気が付く。
c0135543_14105368.jpg

当たり前のことだが北陸・東北の寺とは全く違う趣を醸し出しているひとつに
蘇鉄の存在があるのではないだろうか。
c0135543_1410148.jpg

興福寺の鐘鼓楼と呼ばれる鐘楼の屋根の瓦が面白い。
c0135543_1454085.jpg

鬼瓦は外向き(北側)にあり、
内向き(南側)には大黒天が配置されているのが珍しい。
c0135543_146525.jpg

これは節分でお馴染みの「福は内、鬼は外」を意味している。

続きを読む
[PR]
by shige_keura | 2016-04-01 08:45 | | Comments(0)
九州6泊7日 -歌舞伎と大相撲-
3月18日から24日までの6泊7日、
変化にとんだ九州旅行を楽しんだ。

夫婦で空路、福岡へ、
そこから太宰府天満宮経由、電車で長崎。

半日後、スタディ・ツアーに合流し
軍艦島、五島列島を巡り長崎に戻る。

バスで雲仙温泉経由し島原でツアーから離れ
フェリーで熊本へ、
そこからは単独行動で旧友と落ち合い
熊本と人吉を回るというのが大ざっぱな行程だ。

初日は太宰府天満宮、
学問・至誠・書道の神様とされている藤原道真をお祀りしている神社で
毎年、全国津々浦々から役700万人の人が参詣に訪れると言う。

道真は承和12年(845)生まれで
若くして学問御才能を発揮し右大臣として活躍するが
政略によって京都から太宰府に左遷され当地で58歳の生涯を終えた。
c0135543_17281524.jpg

折からの雨模様、いまさら学問の神様にお祈りに来ても無駄であると
道真公が嘆き悲しむ涙雨なのだろうか。

入り口の右手には有名な句碑が建っている。
c0135543_17284828.jpg

「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘るな」。
c0135543_17291819.jpg

道真が京都を追われるときに謳ったもので、
「梅の木よ、春風が吹いたら梅の香りを太宰府に届けておくれ。
主人である私が居ないからと言って春を忘れてはならぬぞ」との想いが込められている。

本殿の右側にあるのが神木の飛梅
主人を慕って京都から飛んできたことが名前の由来だ。
c0135543_1730899.jpg

天満宮の梅では最も早く花を咲かせるので
今回はすでに散ってしまった後だった。
c0135543_17304457.jpg

太宰府はかつて京都と北の平泉と並び
日本の三大文化圏を形成し栄華を誇ったところ。

大宰府政庁跡を見ると堂々たる敷地であり
その昔の繁栄が容易に推察される。

しかし、京都から見れば太宰府は田舎も田舎、
道真ならずとも左遷の悲哀の想いが強くこみあげてくるのだろうか?

続きを読む
[PR]
by shige_keura | 2016-03-31 08:52 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~心地よいお店~
京都シリーズの最後は、
旅の目的である京都の味で締めることとしたい。

今回訪れたお店は祇園花見小路にある、その名前も「祇園 おかだ」と
京都市役所裏にある「ふじ」である。

前者で夕食を後者で昼食を食べ、
両方の味を存分に味わったのだが、
お店の特徴がそれぞれ出ていたのが興味深かった。
c0135543_1251019.jpg

「祇園おかだ」は10名ほど座れるカウンターの奥に
小部屋が二つほどある様子で、2階にもお客の気配がある。

入ったときはカウンターは半分ほど埋まっていたが、
ご主人の「いらっしゃい」の声、
包丁を持つ手を止めてこちらと目が合っただけ
その仕草から漂うプロ中のプロの気配を感じた。

ただ、それがときとして厭味につながる場合があるが
「おかだ」のご主人からは驕り、昂ぶりの様子は微塵も感じ取れなかった。

この店では両脇のお客の手前、
写真を撮る雰囲気ではなかったのでそのぶん、
じっくりと味に専念することが出来た。

最初の付け出しがこんがりと上がった「胡麻焼き豆腐」に
カラスミの粉がふってあるという珍しい一品。

胡麻豆腐とカラスミの味の濃さのバランスが絶妙で
後の料理への期待が高まり、それは裏切られることはなかった。

向付は「ヤリイカ、ヒラメ、サヨリ、梅貝」、
お椀が「ホタテのしんじょ仕立て」焼き物が「マナガツオの照り焼き」、
お凌ぎの「カニの蒸し鮨」で一息いれたあと、
「オコゼ、筍、蕗の薹」の炊き合わせ、そして「鯛茶漬け」。

灘の生一本をゆるり・ゆるりとお銚子2本、
丁度良い塩梅とはこのことだ。

「祇園 おかだ」から感じられる空気は今や全盛期の頂点、
これを如何に維持していくかが並大抵のことではないだろう。

「どうも有難うございました」、
外まで出てこられたご主人とあいさつを交わす。
c0135543_1252192.jpg

すでに祇園は宵闇、ちらりほらりと光が灯っていた。
c0135543_12522614.jpg


続きを読む
[PR]
by shige_keura | 2016-03-16 09:20 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~金・銀を従える寺~
朝、カーテンを開ける!「びっくりポン!!」。
雪がうっすらと積もっている。
c0135543_21392918.jpg

真冬の寒さがぶり返した中、向かったのは相国寺、
足利三代将軍義満が後小松天皇の勅命を受けて完成した寺である。
c0135543_21403587.jpg

この寺が出来たことで五山の格が改められた。

もともと五山とは鎌倉時代の末期に
北条氏が南宋を倣い五山制度を導入したことに始まる。

そのときの五山の内容は詳らかにされていないが
鎌倉が中心で京の寺は建仁寺のみであったらしい。

その後、室町時代(1386年)足利義満が相国寺を創建した時に、
五山を鎌倉と京都に分割して定め今日に至っている。

尚、京都五山は1.天龍寺 2.相国寺 3.建仁寺 4.東福寺 5.万寿寺と続き、
南禅寺が別格として特別扱いされている。
c0135543_2146393.jpg

今回訪れて初めて知ったことなのだが、
相国寺は塔頭を90以上も有する臨済宗相国寺派の大本山であり、
観光名所で有名な金閣寺、銀閣寺は末寺の扱いとなっている。

金・銀を従えた、将棋で言えば王様に相応しい
大規模な寺院であることに驚いた。
c0135543_21492626.jpg

豊臣秀頼によって再建された「無畏堂」は
現存する法堂のなかでは最古のもの、
天井には鳴き竜として名高い狩野光信の手による
迫力ある龍が観光客に睨みを利かせている。
c0135543_21475736.jpg

法堂の北側に続く方丈に足を踏み入れる。
c0135543_214727100.jpg

大広間に何気なく一枚の法華観音菩薩の掛け軸が掛けられている。
c0135543_2150148.jpg

江戸時代に書かれた観音菩薩、
どこといって特徴はなさそうなのだが、
この絵の凄さはすべての絵柄が
法華経の経文で描かれていることである。
c0135543_21504898.jpg

これを文字絵と表して良いものなのかよく分からないが、
絵の輪郭だけでなく色面もすべて経文で埋め尽くされているという、
気の遠くなるような代物である。
c0135543_21511736.jpg

拡大画像からどの程度、経文文字絵がお分かりになるかは分からぬが、
とんでもない絵を描く人が居たものだ。
c0135543_21521896.png

しかし、先ほどからスリッパを通して伝わってくる残酷なまでの冷たさときたら!!
まさに底冷えの京都を体感しながらの京都五山拝観となった。
c0135543_21535868.jpg

御所を通り抜けての帰り道、
見上げる大文字は未だうっすらと雪化粧だった。
                        
[PR]
by shige_keura | 2016-03-15 08:44 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~狐がいっぱい、外人もいっぱい~
宇治から京都へと帰る奈良線車中、
ふと「稲荷」という駅名があることに気が付いた。

普通ならば固有名詞が稲荷の前につく筈なのに・・・・・・????
c0135543_85059.jpg

それもそのはず、ここは全国に約3万はあると言われる
稲荷の総元締めともいうべき「伏見稲荷大社」なのである。

だから、稲荷と言えば、この辺では伏見稲荷に決まっているわけである。
c0135543_8505075.jpg

ここの御祭神である稲荷大神を祀ったのは
奈良時代の和銅4年(711)と伝えられている。

その後、「応仁の乱」の時に、
ここ一体の稲荷山はすべて焼き尽くされ灰塵に帰してしまった。

豊臣秀吉の代に入り、天正16年(1588)に
秀吉の母の大政所の平癒祈願が成就したことで
大規模な寄進が行われた。

江戸時代に入ると商売繁盛の守り神として
商人・町人に大人気となり現在に至っている。

今では、毎年正月三が日の初詣客の数が250万人と
近畿地方第1位、全国でも第4位と大賑わいを見せている。
c0135543_855234.jpg

更に、驚きは外国人の人気スポットとしての人気が急上昇、
2013年が第2位、2014、2015年は
広島の平和記念資料館を抜いて連続第1位を獲得していることだ。
c0135543_8563780.jpg

稲荷山の広大な敷地は約26万坪、
甲子園球場の22倍もの広さ、
そこに所狭しと立ち並ぶ真っ赤な鳥居に先ず驚く。
c0135543_8572784.jpg

通称、千本鳥居と名付けられた鳥居の長いトンネルが目につくが、
一体全体、何本の鳥居があるのだろうか?

ある人が克明に調査をした結果、
人がくぐれる鳥居の数は3,900本あることが分かったと言う。

次に目につくのはあちらこちらに
鎮座ましましているお狐様の姿である。
c0135543_8582179.jpg

お狐様は稲穂、宝珠、或いは鍵を口にくわえ
稲荷大神のお使いはこの私とばかりに
参拝客を見下ろしているかのようにも見える。
c0135543_8585568.jpg

朱塗りの鳥居にお狐様、
エキゾチックな光景が外国、特に中国の観光客に受けるのだろう、
とにかく聞こえてくるのは中国語が多い。
c0135543_8594690.jpg

それも、満艦飾の和服で着飾った
ご婦人方から聞こえてくる光景は一種異様でもある。
c0135543_902671.jpg


c0135543_923882.jpg

なんだか、お狐様に化かされた気分を味わった伏見大社詣でだった。
c0135543_912065.jpg

[PR]
by shige_keura | 2016-03-14 10:21 | | Comments(0)



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
→過去のブログを見る


ホームページ 



LINK 


LINK FREE

このブログの写真・テキストの無断使用はお断りします。

(c) 2007 shige_keura. All rights reserved.