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カテゴリ:旅( 430 )
京都一泊二日 ~狐がいっぱい、外人もいっぱい~
宇治から京都へと帰る奈良線車中、
ふと「稲荷」という駅名があることに気が付いた。

普通ならば固有名詞が稲荷の前につく筈なのに・・・・・・????
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それもそのはず、ここは全国に約3万はあると言われる
稲荷の総元締めともいうべき「伏見稲荷大社」なのである。

だから、稲荷と言えば、この辺では伏見稲荷に決まっているわけである。
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ここの御祭神である稲荷大神を祀ったのは
奈良時代の和銅4年(711)と伝えられている。

その後、「応仁の乱」の時に、
ここ一体の稲荷山はすべて焼き尽くされ灰塵に帰してしまった。

豊臣秀吉の代に入り、天正16年(1588)に
秀吉の母の大政所の平癒祈願が成就したことで
大規模な寄進が行われた。

江戸時代に入ると商売繁盛の守り神として
商人・町人に大人気となり現在に至っている。

今では、毎年正月三が日の初詣客の数が250万人と
近畿地方第1位、全国でも第4位と大賑わいを見せている。
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更に、驚きは外国人の人気スポットとしての人気が急上昇、
2013年が第2位、2014、2015年は
広島の平和記念資料館を抜いて連続第1位を獲得していることだ。
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稲荷山の広大な敷地は約26万坪、
甲子園球場の22倍もの広さ、
そこに所狭しと立ち並ぶ真っ赤な鳥居に先ず驚く。
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通称、千本鳥居と名付けられた鳥居の長いトンネルが目につくが、
一体全体、何本の鳥居があるのだろうか?

ある人が克明に調査をした結果、
人がくぐれる鳥居の数は3,900本あることが分かったと言う。

次に目につくのはあちらこちらに
鎮座ましましているお狐様の姿である。
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お狐様は稲穂、宝珠、或いは鍵を口にくわえ
稲荷大神のお使いはこの私とばかりに
参拝客を見下ろしているかのようにも見える。
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朱塗りの鳥居にお狐様、
エキゾチックな光景が外国、特に中国の観光客に受けるのだろう、
とにかく聞こえてくるのは中国語が多い。
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それも、満艦飾の和服で着飾った
ご婦人方から聞こえてくる光景は一種異様でもある。
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なんだか、お狐様に化かされた気分を味わった伏見大社詣でだった。
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by shige_keura | 2016-03-14 10:21 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~生まれ変わった極楽浄土~
お金、切手にこれほど使われている建物もないのではないだろうか?
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宇治平等院の鳳凰堂と
屋根の上に飾られている鳳凰だ。
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私が今でも持っている、昭和26年発行の24円切手には
鳳凰が羽を広げた平等院鳳凰堂がモチーフとなっている。
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続いては昭和32~33年の100円硬貨の裏のデザイン、
昭和51年発行の150円切手にも屋根の上の鳳凰が描かれている。
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そして、現在も使用されている1万円札の裏は鳳凰であり
10円硬貨には鳳凰堂が使われている。
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世界遺産として多くの人々が訪れる宇治平等院、
その創建については次のような話が伝えられている。

もともと、この地には9世紀末頃、
「源氏物語」の光源氏のモデルとされる
左大臣・嵯峨源氏の源融の別荘があった。

それが宇多天皇の手に渡り、
天皇の孫である源重信を経て
長徳4年(998)摂政・藤原道長の別荘「宇治殿」となった。

道長の子、頼通は永禄7年(1052)「宇治殿」を
寺院と改めたのが「平等院」の起源である。

何故、寺院としたかの背景には
この時代に存在した「末法思想」がある。

「末法思想」とは釈迦入滅してから1,500年後には仏法が廃れ
末法の世が到来すると多くの人は信じ、
その到来に対する深い恐怖感を人々は抱えていた。

自分自身も末法を信じていた頼通は、
まさに末法元年(1052年)に別荘を平等院とし、
翌年には極楽浄土をイメージした鳳凰堂と庭園を創建した。
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鳳凰堂が極めて高い価値を持つのは
現存する希少な平安時代の建造物であるということだ。

京都は1467年の「応仁の乱」で灰塵と化し、
それ以前に作られた建造物の殆どが焼失した。

従って、平安時代の貴族が建立した寺院が
建物、仏像、壁画、庭園まで残っているという意味で
平等院は貴重な存在なのである。

ただ、平等院も建武3年(1336)の
楠正成と足利氏との戦いの折に被害を受けたのだが
鳳凰堂だけは奇跡的に災害を免れた。

尚、鳳凰堂は建物の姿かたちが
鳳凰が羽を広げている姿に似ていること、
屋根に鳳凰の飾りがついていることからの通称で
本来の名前は「無量寺院」、平等院の阿弥陀堂の位置づけである。
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平成の修復(2012年9月~2014年3月)を終え
色鮮やかに蘇った鳳凰堂はまさしく
極楽浄土を永遠に語り継いでいるようである。
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by shige_keura | 2016-03-12 20:57 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~宇治十帖の里~
今回の京都シリーズは自分の無知をさらけ出してしまうが、
私は代表的古都・京都も知らなければ
日本の古典文学に対しての知識も全くない。

古典の最高峰と言われる紫式部の「源氏物語」は、
さすがに名前は知っているものの読んだことはない。

従って、ここ宇治が「源氏物語」の特別篇ともされている、
「宇治十帖」の舞台であることも知らなかった。

言い換えてしまうと「源氏物語」に
「宇治十帖」と呼ばれるものが存在することも知らなかった。
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にわか勉強で知ったところでは「源氏物語」は全54帖、
その中の45帖の「橋姫」から54帖の「夢浮橋」までを、
主な舞台が宇治ということで「宇治十帖」と呼ばれている。
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正直なところを告白するが「源氏物語」の
概要、解説書を読めば読むほど頭が混乱してきた。

その最大の理由は、
物語に登場してくる人物の驚くべき多さである。

主人公の光源氏、両親の桐壺帝と桐壺更衣、
朱雀帝、藤壺中宮、葵の上、紫の上・・・・・、
80名以上の人物が登場してくる。

これだけの人物を整理して書き進めていく!
一体、紫式部の頭の構造はどうなっているのだろうか!!

とてもとても覚えきれないところに持ってきて
名前だけでは、男だか女だかよく分からないのである。

具体的な例を、「宇治十帖」に登場する
人物名で挙げると
薫君、八宮大君、八宮中君、浮舟、匂宮、といった名前が出てくるが
誰と誰が男だかお分かりになるだろうか?

正解は最初と最後が男性で他の3名は女性である。
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「宇治十帖」のお話は光源氏等の主要な人物が
すでにこの世を去った後の物語。

光源氏の異母弟・八宮は妻を亡くし、京都の家も焼け、
今は片田舎の宇治の小さな山荘で暮らしている。

その山荘に訪れたのが源氏の君の子として育てられ、
自らの身体から魅力的な芳香を醸し出す、その名前も薫君。

そして薫君を意識するかのように
衣に香りを焚き付けた自由奔放な匂宮、
何とも名前を聞いただけで
雅の香りが漂ってくる主人公二人である。
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その間で振り子のように揺れる心で
思い悩むのが八宮の妾腹の浮舟、
彼女は思い余って宇治川に身を投げるが・・・・・・、
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この三人の恋模様が宇治の里で
展開されていくお話しであるらしい。
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宇治川を挟んで、「夢の浮橋古墳」後ろには紫式部像、
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対岸には小舟に乗った浮橋と匂宮、
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横に咲いているツバキは「光源氏」等、
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日本の代表的古典の舞台を盛り上げる演出も楽しい
一時の宇治十帖そぞろ歩きだった。
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出来ることなら、もう一度時間をかけて来てみたい。
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by shige_keura | 2016-03-11 08:55 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~先陣争い~
宇治で思い出したことがもうひとつ、
それは「宇治川の合戦」での先陣争いである。

子供のころ、ヒーロー源義経が大活躍した
「源平盛衰記」を好んで読んだご同輩も多いと思う。
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かくいう私も絵物語の義経の活躍に胸躍らせた覚えがある。

「源平盛衰記」にはいくつかの山場があるが、
人気ベストスリーを挙げるとすれば、
「一ノ谷の合戦」の鵯越えの逆落とし、
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「屋島の合戦」に於ける、弓の名手、那須与一が
海に馬を乗り入れ遥か彼方の扇の的を射ぬいた離れ業であり、
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ここ、「宇治川の合戦」での佐々木高綱と梶原景季の先陣争いとなろう。
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暗誦するまで夢中になった「源平盛衰記」なのだが、
恥ずかしながら、つい最近まで酷い勘違いをしていた。

それは、「源平盛衰記」に出てくる主な戦いは
すべて源氏と平家の間で繰り広げられた戦だと思っていたことだ。

そもそも「源平盛衰記」とは応保年間から安徳天皇の寿永年間まで、
約20年間に及ぶ源氏と平家の盛衰興亡を
全48巻にわたって述べている軍記物語である。

主な内容は源氏と平家の争いなのだが、
中には源氏勢力の中での主導権争いも登場してくる。

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by shige_keura | 2016-03-09 22:12 | | Comments(0)
京都一泊二日 ~茶壺に追われて・・・~
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2月29日から3月1日にかけて、
終わりかけた梅の上に、うっすらと雪が積もるという
真冬の寒さがぶり返した京都を訪れた。
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主な目的は京都に詳しい方に紹介を受けた
評判の小料理屋で美味しい和食を味わうことにあった。
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私は京都には数回行ったことはあるとは言え、
古都についての知識はまるでない。

今回も市内でタクシーに乗って祇園に向かった折に
言わなきゃいいことを言ってしまって、
運転手さんを呆れさせてしまった。

私:「ほら、あの正面に見えるのが平安神社ですよね」。

運転手さん:「お客さん、本当に何も知らないねー、ひどいね、あれは八坂神社です」。

きまずい雰囲気が車中に漂ったのだが、
これが、私の京都に対する知識の低さを如実に物語っている。

金閣寺、銀閣寺の「姿かたち」は流石にイメージとして頭にあるが、
これが二条城、御所、知恩院、等々、まるで頭に浮かんでこない。
               (漸く分かった「知恩院」、うーん、立派だ!)
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行ったことがあるのだか?、ないのだか?はっきりとしない。

だから、京都郊外の宇治に至っては、
どこにあるのかさえ分かっていなかった。

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by shige_keura | 2016-03-08 20:37 | | Comments(0)
房総は春近し -地球をひとまわり―
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               (旧宅内にある伊能忠敬像)
ここは佐原の水郷地帯、
運河脇にあるのが伊能忠敬の旧宅である。
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伊能忠敬は日本を代表する測量家として名高いが
商人の才能も一流だった。
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伊能忠敬は江戸時代の中ごろ(1745年)
千葉県の九十九里浜に生まれ
17歳の時にこの地の酒造家であった
伊能家に婿養子に入り50歳までここに暮らした。

彼が伊能を名乗ったころ、
家の商売は危機的状況にあった。

忠敬は商売立て直しのために徹底的な倹約を進め、
その一方では本業以外に江戸に薪問屋を設けたり
米穀取引の仲買商売を行った。

その結果、29歳の時には
伊能家の収益は351両(約3,500万円)にまで回復した。

又、28歳の時に起きた「天明の大飢饉」の際には
私財を投げうって地域住民の救済に当たり
村では餓えで命を落とす人は出なかったという。

家の商売は彼の人徳と商才によって繁盛し
48歳の時の収益は1,264両(約1.3億円)にまで達した。
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忠敬はその頃より独学で暦学に打ち込み
49歳で家業のすべてを長男に託して隠居した。

隠居と言ってものんびりすることが目的ではなく
ひとえに暦学への探求をしたいからだった。

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by shige_keura | 2016-02-17 16:11 | | Comments(0)
房総は春近し -満腹のあとはドーバーで-
鮮魚が売りの食事処、
「すず女」は銚子エリアの人気店。

列の後ろに並んで待つ甲斐があったことは
運ばれた料理を見て一目瞭然。
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最初に運ばれてきた家内注文の
海鮮丼の迫力も十分だったが、
私の頼んだ海鮮別盛りのボリュームはその上をいくものだった。

一体、どれほどの種類の魚介が目の前に並んだのだろう。
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記憶をたどると、カニ、エビ、イカ、タコ、ブリにスズキ、マグロ、
貝類が平貝、ホッキ、ホタテに・・・・・あとは覚えていない。

茶碗に山盛りのご飯はとてもではないが途中で白旗。

コストパフォーマンス抜群の店だった。

腹ごなしウオークならば絶好な場所が屏風ヶ浦、
切り立った断崖は「東洋のドーバー」とも呼ばれている。

断崖の高さは約60メートル、
スケールではドーバーには及ばぬものの
海辺から広範囲にわたって地層を見学できる興味深い場所である。
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この岸壁はかつては海底にあった石灰岩の地層が隆起し、
その上に関東ローム層の赤土が積もったものである。

尚、ローム層がなぜ赤くなったかと言うと、
火山灰が積もって鉄分が赤く酸化していった為に出来たものなのだ。

このように海底からせり上がった岸壁だが、
土壌が弱いことと打ち寄せる波の強さで
有史以来数キロに渡って削り取られている。

海の中から現れた陸地が再び徐々に海に消えていく。
自然とは実に興味深いものだ。

具体的な例として鎌倉時代に崖上に築かれた
片岡常春の居城・佐貫城の遺構は
今や沖合数キロの海中に眠っている。
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by shige_keura | 2016-02-15 21:18 | | Comments(0)
房総は春近し -「上」の意味は?-
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今や世界の味として洋の東西を問わず
親しまれている醤油であるが、
一体いつごろこの世に生まれてきたのだろうか。

醤油の原型と言われる醤(ひしお)は
すでに弥生時代からあったといわれているが、
一般に我が国における醤油の発生は鎌倉時代と言われている。
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紀州由良(和歌山県)、興国寺の僧・覚心が
宗の国で習得した味噌の作り方を教えているときに、
偶々、桶の底に溜まった液をなめてみると
大層美味しいのに驚いたのが醤油の始まりである。
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ただ、その頃の醤油は「たまり醤油」で
量に限りがあり一般的に流通するまでに至らなかった。

その後、江戸時代に入り(1610年ごろ)
現在の醸造法が和歌山県で発明(湯浅醤油)されたことで全国に広まっていった。

当初は関西は言うに及ばず江戸でも
いわゆる「下り醤油」(西から江戸に運ばれてきた醤油)が普及していた。

関東でも醤油づくりには江戸時代から力を入れていたのだが
その中心にいたのが富農、名主層、近江商人と並んで紀州出身者がいた。

後に、彼らは独自に「濃い口しょうゆ」を発掘し
利根川・江戸川水系を活用して
大消費地の江戸への出荷を伸ばしていった。

その結果、江戸時代後半に入ると
江戸の町でも濃い口しょうゆが
下り醤油よりも好まれるようになっていった。

この濃い口醤油生産の中心なのが
千葉県の銚子と野田なのである。

現在の日本の県別生産量を見てみると
千葉県が35.6%と他県を圧倒している。

又、日本の醤油五大名産地の中には
銚子、野田、龍野と千葉県の三つの町がリストアップされている。

因みに残るふたつの産地は、
兵庫県の小豆島と石川県の大野である。

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by shige_keura | 2016-02-13 20:52 | | Comments(0)
房総は春近し -お喋り九ちゃん-
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「香取神宮」は関東地方を中心に全国にある香取神社の総本山、
元締めの偉容をまざまざと見せつけるかの如き
堂々たるお社を構えている。
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ここは「団碁祭」の名のもとに
お神酒ではなくお団子を備える祭りが有名で
参道の両側にはあちこちと「厄落とし団子」の看板が見られる。
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その参道に沿って鳥居に向かって歩を進めている
途中ギクッとして一行の足が止まった。

「お団子おいしいよ」妙な声音ながら
はっきりとした呼び込みの声である。

「誰だ?俺様を呼び止めたのは?」と、
声の方向を見やると、
小さな鳥かごに一羽の鳥が鎮座ましましている。
                      

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by shige_keura | 2016-02-10 22:43 | | Comments(0)
房総は春近し -風情ある町並み-
1月31日、快晴の日曜日、
家族郎党、総勢10名で早春の房総を旅した。
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夏ミカンの黄色と葉の緑が青空に映え、
蝋梅のほのかな香りが風に乗って運ばれ、
房総の春はすぐそこまで来ている。
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最初の目的地は佐原・香取の水郷地帯、
そこに昔の面影を今に留める町並みがある。
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尚、水郷とは明治から昭和初期にかけては
「すいきょう」と呼ばれ水のほとりの村を意味していた。

やがて昭和中期に入ると、
その中でも利根川下流から霞ヶ浦にかけての地域を
「すいごう」と呼ばれるようになった。

茨城県の「潮来」と千葉県の「香取」が水郷を代表する地点である。

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by shige_keura | 2016-02-08 21:44 | | Comments(0)



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