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カテゴリ:観( 306 )
開場50周年
歌舞伎公演の基本に立ち返り、
通し狂言による上演を基本との理念のもとに
国立劇場が設立されたのは昭和41年(1966年)の事だった。
           (完成間近のころの国立劇場、まだ都電が走ってる)
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開場公演の「菅原伝授手習鑑」に際して
祈念切手が発売されたことに期待の高まりが見て取れる。
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以来、今年の11月で満50年、
歌舞伎公演300回を迎えたた節目に
10月から3か月通しで行われている公演が人気演目の「仮名手本忠臣蔵」である。
                (11月5日、秋晴れの国立劇場)
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「仮名手本忠臣蔵」の初演は寛永元年(1748年)に遡るが、
いずれの時代も歌舞伎の人気演目としての不動の位置を保ち続けている。
              (国立劇場開場20周年の時の「仮名手本忠臣蔵」)
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実際の松の廊下の刃傷沙汰から
赤穂浪士の討ち入りが起こったのが1701年~1702年の事だから
初演は事件後46年の事となる。

従って、お芝居は時代も足利時代に置き換え、
人物の名前も変えざるを得なかった。

更に、討ち入りの浪士の数、四十七士を
「いろは四十七文字」に見立てたことで「仮名手本」のタイトルがつけられた。

記念三か月公演の上演時間を合計すると
15時間以上に達する超大作である。

今回の11月は5段目から7段目、
お軽・勘平の道行と不思議な因縁、
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そして四十七士を率いる由良之助が一力茶屋で見せる
放蕩と見せかけた振る舞いが見せ場となっている。
                (7段目・祇園一力茶屋)
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今まで断片的にしか知らなかったお芝居の中身が
漸くつながりとして捉えられたことが
興味深く観られた大きな要素となった。

主君の仇討に向かうお話を縦糸とし、
それにまつわるいくつかのエピソードが
いわば横糸として巧みに、緻密に張り巡らされていることに驚いた。
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尾上菊五郎、中村吉右衛門以下、尾上菊之助、
尾上松緑、中村錦之助、中村雀右衛門、等々の豪華出演。

なかでは、お軽の兄、寺岡平右衛門に扮した
中村又五郎の硬軟取り混ぜた熱演、
そして、お軽に横恋慕する鷺坂伴内に扮して
滑稽味を醸し出す坂東亀三郎が印象的だった。

とりわけ中村又五郎の芸域に幅が出たことは
驚きでもあり今後の楽しみにもなった。
             (先代・又五郎の「剣客商売」秋山小兵衛)
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先代又五郎は痩身小柄ながら存在感は抜群であり、
池波正太郎が偶然に出会った時に
人気シリーズ「剣客商売」の秋山小兵衛をイメージしたと
度々随筆に著していた。
             (池波正太郎氏が描いた秋山兵衛)
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一方の当代・又五郎は小太りで小柄、
同じ池波正太郎の人気シリーズ
「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵にぴたりとはまる役者だと感じた。
             (右・中村吉右衛門・当代鬼平、左・当代・中村又五郎)
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             (池波正太郎氏描くように長谷川平蔵は小柄で小太りの男)
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話が若干横道にそれたが、12月の幸四郎の由良之助が楽しみだ。
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by shige_keura | 2016-11-07 08:55 | | Comments(0)
85歳の奇跡
1982年、「ファイヤ- フォックス」、
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当時の東西冷戦化を背景にマッハ5の性能を持つ
ジェット戦闘機の迫力を如何なく描き出した時が52歳。

2000年の「スペース・カウボーイ」では
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現役を引退した年寄り4人組の宇宙への再挑戦を
夢とロマンをたっぷりと盛り込み観客を魅了したのが60歳のとき。

そして85歳を迎えた今、
三度び空をテーマとした傑作を生み出したのがクリント・イーストウッドである。
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実話をもとにした「ハドソン川の奇跡」は
タイトル通り航空機史上の奇跡であるとともに
年老いた監督の映画への情熱が生み出した奇跡の大傑作だ。

クリント・イーストウッドは
当初しがないテレビ西部劇の俳優だった。
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               (テレビ西部劇「ローハイド」
                左・イーストウッド、右・エリック・フレミング)
その後、マカロニウエスタンの顔として
その存在を世に知らしめた。
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従って監督としてのデビューは遅咲きとは言え
2000年以降に生み出した傑作群は
彼の非凡な才能と共に常にフレッシュな感性を強く印象づけてきた。

例えば、2004年の「ミリオンダラー・ベイビー」は
人間の死に対して冷徹で客観的な結論を下している。

2008年の「グラントリノ」では人種問題を通じて
老人の覚悟が潔く語られた。

2009年、「インビクタス/負けざる者たち」は
南ア初の黒人大統領の決意をラグビーを通じて
痛快に爽やかに伝える娯楽作品である。

その後、2014年には「アメリカンスナイパー」と
「ジャージーボーイズ」と言う好対照の傑作を送り出した。

一方は中東の戦場に送り出された狙撃手の
心の葛藤を描く社会的作品であり、
他方は彼が得意とする音楽分野の娯楽作であった。

イーストウッドに対して驚くのはクランクインから
アップまでのスピードの速さであること。

そして彼の作った映像からは
何のてらいもない映画に対しての素直さがはっきりと窺える。

これが、今までの巨匠たちとは大きく違うところだ。

アメリカの巨匠、アカデミー賞を5回獲得したジョン・フォードでも
62歳の時に作った「捜索者」を最後に切れ味、枯淡の味共に失われていった。

英国生まれでハリウッドで大活躍したアルフレッド・ヒッチコックは
61歳の時に生み出した「サイコ」が彼らしい最後の作品となった。

日本を見ても、大傑作「七人の侍」を世に送った黒澤明でさへ、
70歳の「影武者」、「乱」は冗長で独りよがりの色濃く、
巨匠老いたりの感が強い。

「ハドソン川の奇跡」、実話を真正面に捉え、
力むことなくわずか1時間30分余で観客を酔わせるイーストウッド、
とても85歳の老境に差し掛かった男の作品とは思えない。

これは「85歳の奇跡」として
映画史に残る娯楽作品の見本と言えよう。

こういう作品は、最後の最後まできちんと見よう。

そこに登場するのは実際のサリー、
瞬時の判断で大惨事を未然に防ぎ犠牲者を一人も出さなかった機長である。
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               (左より、副長役のジェフ・スカイルズ、実際のサリー、
                クリント・イーストウッド、トム・ハンクス、機長役)
この飛行機には当時二人の日本人が搭乗していた。

機長と一緒の救命ボートに乗った一人はこう語っている。

「救助が完了して陸に上がった時の機長から興奮の色は何も感じなかった。
 これで任務完了、帰りに一杯飲んで帰るかというような余裕さへ感じた」。

サリーを演じたトム・ハンクスも見事な役者として引き付けたが、
実際のサリーは、わずかな登場の中で
英雄とは何たるかを教えてくれた。

クリント・イーストウッド、
次はどのようなテーマで観客を楽しませてくるのであろうか。
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by shige_keura | 2016-11-01 09:21 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -7-
1974年と言えば戦後そろそろ30年に差し掛かる頃の12月6日、
場所は東京武道館で超満員の観客を集めた
伝説のコンサートが開かれた。

このときの16,000人を数えた観客の盛り上がりは
1966年のビートルズ初来日コンサート以来であると伝えられている。

名付けて、「中年御三家 ノーリターン・コンサート」、
熱狂的なファンをそれぞれに集めていた
小沢昭一(当時45歳)、野坂昭如(44歳)、永六輔(41歳)、
司会進行役を務めたのが愛川欣也(40歳)と中山千夏(26歳)だった。

小沢昭一さんは小生の中学・高校の大先輩、
今から思えば何としてもこのイベントは見逃すべきではなかった。

とにもかくにも言葉の達人をこれほど揃えたコンサートは
空前絶後と言うべきに違いない。

今となっては当時の模様を録音でしか知ることはできないのだが、
それだけでも十分に当時の盛り上がりを窺えることが出来る。
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司会者の滑稽な紹介でひとりずつ舞台に登場し、喋りと歌を披露する。

当時、浅田飴のコマーシャルをしていた永六輔。

「遠くに行こうと行けまいと、お経を詠もうと詠めまいと、
 咳・声・喉に浅田飴、赤坂珉珉会長(その筋に有名なチャーメン屋)、
 浅田飴で鍛えた喉の持ち主、永六輔」の紹介で登場。

あとは独特の口調で場内を沸かせる。

どうぞ永さんの顔と喋りを思い出しながら読んでいただきたい。
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「後ろに3人の写真がありますよね。
 海軍兵学校で戦争に参加した小沢さん、
 学徒出陣寸前の野坂さん、
 焼け跡にコスモスが咲く中、飢えと戦った私、
 それぞれ2歳ずつ違うのね。

 育った環境が違うから、僕の顔には厳しさがないけれど、
 ・・・女性をくすぐる甘さがありますよね・・・・・」。

当時、サンヨー・レインコートの
テレビ・コマーシャルに出演していたのが野坂昭如。
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「雨が降ろうが降るまいが・・・・外はいつでもサンヨー・レインコート、
 浮浪児出身、感化院卒、四畳半襖張替業」の紹介で登場した野坂さんは
例の早口ながら訥々と語る。

「我々御三家に優る歌手は居ないわけで、
 今年の十大ニュースなんだ、きっと。
 今日は酒を一切飲まず、歌詞を見ることなく独りでやります。
 トム・ジョーンズと一緒にってオファーがあるって聞いたんだけど、
 あんなドサ周りと一緒にはごめんだね」。

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by shige_keura | 2016-07-31 11:06 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -6-
1968年、テレビのコマーシャルに登場した巨泉さんから
突如、わけのわからぬ言葉が飛び出した。

リズム感抜群ながら意味不明の言葉は
倒産寸前だったパイロット万年筆を奇跡の復活へと導いたのだから
視聴者に与えたインパクトは半端ではなかった。
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「みじかびの、きゃぷりきとれば、すぎちょびれ
 すぎかきすらの、はっぱふみふみ、   分かってね!」

コマーシャル撮影の為スタジオ入りした巨泉は
台本を一目見るなり「面白くない」と一言、
そしてアドリブで奇妙な言葉が飛び出した。

この時代、植木等、谷啓等が
盛んに意味不明の言葉を使って話題を呼んだ。

「ハラホロヒレハレ」とか「ガチョー-ン」という言葉を覚えておられるだろう。

巨泉さんがこの言葉に込めた意味はこうなのだ。

「ポケットに入りやすくした短い万年筆、キャップを取って後ろにつければ、
 あとはすらすらと書けてルンルン気分」。

なんとなくわかるような気がするが、
そんなことよりも巨泉のリズム感には仰天した。

これには続編が登場した。

「すぎしびの、ほねのすねにて、はぎりでら
 すらりぺらぺら、はっぱのりのり」、

このあとに彼の歯切れの良い言葉が続く。

「僕が言いたいのはね、18金キラ、キンキンの万年筆の書き味が
 “のりのり”か“ふみふみ”だってこと。
 ここはやっぱり“ふみふみ”だね」。

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by shige_keura | 2016-07-30 18:03 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -5-
「金曜11」の中で、大橋巨泉は多彩な才能を発揮していた。

視聴者参加の「11ダービー」は
言ってみれば二人を競馬馬に見立て、
参加者の選ぶ番号によって進むコマが決まり、
どちらが早くゴールに辿りつけるか、
いわば双六と同じ至極単純なゲームである。
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これを人気コーナーとしたのは
大橋巨泉の話術の賜物と言って間違いない。

こんな、言葉が度々彼の口から飛び出した。

視聴者が電話で選んだ数字が、例えば「へ5番」とする。

巨泉曰く、「あッ、への5番ね、これが凄いへで・・・・」、
雪路は又かといった顔をしながらも吹き出す。

巨泉だからこその面白さだと思う。
               (11PM本番前の打ち合わせ中の巨泉と雪路)
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そのほか、競馬勝ち馬予想、麻雀、釣りにゴルフにボーリング、
そして番組では殆ど取り上げなかったが将棋も玄人はだしだった。

競馬をはじめとする博打、将棋の世界に精通している
作家の山口瞳さんは巨泉の才能に驚嘆したことがあった。

巨泉が将棋の世界に入ったきかっけを作ったのが山口さんなのだが、
わずか半年後には平手で勝てなくなるほどの上達を見せたと言う。

「巨泉さんは何事にも真面目に真剣に取り組んでいる。
 あの人は才能もあったのは確実だが努力も半端じゃない」。

これが山口瞳の巨泉評である。

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by shige_keura | 2016-07-28 20:24 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -4-
1965年、テレビにとっては不毛の時間帯の深夜に挑戦した番組が現れた。

NTV系列で始まった「11PM」、
まさしく当時の深夜と言われた23時から1時間もかけたバラエティ番組だった。

月・水・金は関東、火・木は関西がキーステーションとなって始まった「11PM」は
お色気という新たな味付けを盛り込んだことで
深夜としては驚くべき視聴率を叩き出した。

私が観たのは主に関東製作「11PM」、
月曜日と水曜日は小島正雄のスマートな司会が印象的だった。
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彼は1913年の生まれ、NHK入社するも戦後復員してからは
名門ジャズバンド「ブルー・コーツ」のバンド・マスターとして活躍し、
コーラスグループの「ダークダックス」「ボニー・ジャックス」
「スリー・グレイセス」の生みの親として名高い。

これから更なる活躍が期待された56歳の時に
心筋梗塞の為突然この世を去り世間を落胆させた。

金曜日の11時が楽しみのお時間、「金曜11」の開始である。

ジャズ評論家でピアニストでも活躍した三保敬太郎の
軽快なアップテンポのテーマが流れる。
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画面には網タイツの女性の動画、
そしてお色気一杯のジューン・アダムスがウインク!
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「バー・サバダバ、ダバダバ・・・・」。

続いて、金曜日の司会者大橋巨泉と
朝丘雪路のお馴染みのセリフが流れる。
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「金曜のイレブンは、司会は巨泉、野球は巨人の大橋巨泉と」(巨泉のセリフ)
「朝まるで弱い朝丘雪路」(雪路のセリフ)の司会でお送りします。

ここからはページを割いて最も敬愛したタレントの一人、
大橋巨泉の思い出を語りたい。

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by shige_keura | 2016-07-26 23:24 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -3-
1961年4月から1966年までNHKに登場したのが「夢であいましょう」。

一方、同じ年の6月から1972年までNTVで放映されたのが「シャボン玉ホリデー」
共に大ブレークした懐かしの音楽バラエティである。

まずもって、堕落の一途をたどるNHKが
「夢であいましょう」のような小粋でハイセンスな番組を作っていたということが驚きだ。

それに、比べ現在のNHKの歌番組は
昔のデパートの大食堂さながら、
企画の意図がまるでないので、上手く演出することなど出来るはずがない。

典型的な時間の無駄番組と落ちぶれている。

当時のNHKとしては22時~22時半と遅い時間帯に流していたが、
高校生の私は毎週楽しみにテレビにかじりついていた。

番組の冒頭と最後に進行役で登場したのが
ファッション・モデルでお上品な中島弘子、
彼女の首を右に傾けながらの挨拶とお辞儀はいつ見ても魅力的だった。
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「夢であいましょう」は数々のタレント、逸話を残したが最大のヒットは今月の歌。

ここから伝説の「六・八・九」コンビの「上を向いて歩こう」が生み出された。
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「六・八・九」とは作詞の永六輔、作曲の中村八大、
そして日航ジャンボの墜落の犠牲となってしまった坂本九である。

永六輔、中村八大は次々と今月の歌でヒットを飛ばしていく。

“知らない町を歩いてみたい・・・”、ジェリー・藤尾の「遠くへ行きたい」。

“こんにちは赤ちゃん、私がママよ・・・」、梓みちよ、
               (こんにちわ赤ちゃん)
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”いつもの小路で目と目があった・・・」、田辺靖雄、

”幼馴染の思い出は、青いレモンの味がする・・・・」のデューク・エイセス等、
今でも歌詞とメロディーが懐かしく脳裏に焼き付いている。

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by shige_keura | 2016-07-26 09:01 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -2-
「昨日(きのう)の続き」。

ラジオ関東(現・ラジオ日本)で1959年から1971年まで
12年間もの長きにわたって放送された人気トーク番組だった。

富田恵子は番組アシスタントとして毎回登場し
二人の男性のトークのお相手をしていた。

番組の最後に必ず彼女が言う爽やかな口調が印象的!

「今日の話は昨日の続き、今日の続きはまたあした、
提供は参天製薬、声とアイデアは前田武彦、永六輔(大橋巨泉)、
そして私、富田恵子がお送りしました」。

リズム感抜群のフレーズは当初は、番組ゲストだった
大橋巨泉が考えたものだと本人が語っていた。

レギュラー永六輔の、なんとも独特な声に驚いた覚えがあるのだが、
切れ味と間合い抜群のトークに魅了された。

大橋巨泉は或る日、突然スタジオに来なくなった
永六輔に代わっていつしかレギュラーとなった。

永六輔は当時から番組降りの名人として仲間内で有名だったとか。

私にとっては永六輔よりも大橋巨泉の方が
前田武彦とのコンビネーションが上手くいっているように感じた。
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あの大橋巨泉をして「話術の天才」と言わしめたのが前田武彦なのだから、
それだけでも番組は大成功したようなものである。
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この二人が組んだのが「巨泉・前武 ゲバゲバ90分」、
二人で1時間半の長丁場を飽きることなくこなせたのも
「昨日の続き」があったからこそと私は確信している。

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by shige_keura | 2016-07-24 22:09 | | Comments(0)
遥かなる昭和・本物のタレント群像 -1-
「そして誰もいなくなった」、ミステリー作家の第一人者であった
アガサ・クリスティ女史による
1939年に発表された長編推理小説のタイトルだ。

このタイトルさながらにショッキングな出来事が続いた。

7月7日に亡くなった永六輔のあとを追うように、
5日後の12日、大橋巨泉があの世に旅立ってしまった。
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私が敬愛する真のタレントは遂に居なくなってしまった。
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思えば昭和の時代はキラ星のごとく現れた真のタレントが
妍を競うように我々の目・耳を楽しませてくれたものだった。

それに比べると平成の世にテレビ、ラジオに出てくる
タレントと自ら名乗る人たちがなんと薄っぺらいことか!

我儘と言われようが、殿さまと言われようが、
生意気、自分勝手と批判されようが、
自らの意見を貫き、様々な分野で絶大なる存在感を示した昭和の真のタレント!

遥か遠ざかりゆく昭和、惜別の想いを込めて
我々を楽しませてくれた偉大なタレント群像を振り返ってみたい。

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by shige_keura | 2016-07-23 23:24 | | Comments(0)
奇跡の人逝く
1962年、「奇跡の人」でアカデミー助演女優賞を得たパティ・デュークが亡くなった。
享年70歳、慎んでお悔やみを申し上げます。
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「奇跡の人」は生後2歳の時の病気がもとで
目が見えず、音が聞こえず、言葉も喋れない、
三重苦を背負いながらも教育家、社会福祉活動家として
世界的に知られたヘレン・ケラーの子供時代を描いた作品だ。

「奇跡の人」のオリジナルタイトルは”The Miracle Worker“。
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このタイトルが示すように、作品の主人公はヘレン・ケラーというよりも、
粘り強く彼女の面倒を見た家庭教師のアニー・サリバンである。

この映画は監督賞のほかに、二つの女優賞を獲得するが、
主演女優賞はアニー・サリバンを演じたアン・バンクロフトが獲得し
ヘレン・ケラーを演じた当時16歳のパティ・デュークは助演女優賞を得た。
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この作品は地味な映画ではあるが
絶望の淵で荒れ狂う一人の少女と
強い信念を持って更生に導く家庭教師の関係が
赤裸々に語られていく迫真のドラマだった。

特に井戸の水を手で受けたヘレン・ケラーが
”water”と叫ぶ場面は観る人すべてに大きな感動を与えた。
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ヘレン・ケラーを演じたパティ・デュークは1946年の生まれ、
父がアルコール依存症、母が鬱病と不幸な子供時代を送った。

のちに8歳の時に里子に出されるが、
そこで子役としての才能が見いだされ
1959年、13歳の時にブロードウエイの舞台で
”The Miracle Worker“のヘレン・ケラーを演じ大きな注目を集めた。

恐らく、パティ・デュークが幼いころに経験した不遇が
ヘレン・ケラーを演じるに大きなプラス材料として働いたのだと思う。

舞台劇のヒットを受けて1962年に映画化されたときに
彼女は16歳にしてアカデミー助演女優賞を獲得した。

これは、その後テータム・オニール(10歳で助演賞獲得)に破られるまで
最年少アカデミー賞獲得記録だった。

その後、パティ・デュークは1979年のときにテレビ映画でリメイクされた
”The Miracle Worker“で家庭教師役のアニー・サリバンを演じた。

従って、パティ・デュークこそ正真正銘の「奇跡の人」、
”The Miracle Worker”なのである。

彼女はテレビのヒットバラエティ「パティ・デュークショー」で日本にも紹介されるが、
二役を演じコメディ・タッチの番組から
ヘレン・ケラーの面影を見出すのは難しかった。
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ここで実在したヘレン・ケラーとアニー・サリバンを紹介しよう。

三重苦を抱えたヘレン・ケラーの両親は
当時、聴覚障害児の研究に当たっていた
グラハム・ベル(電話の発明者)に相談した。

その結果、家庭教師として派遣されたのが
自らも視覚に問題を抱えた経験があるアニー・サリバンだった。

彼女は自らの体験をもとに粘り強くヘレン・ケラーに接し
「しつけ」「指文字」を教え込みつつ彼女の口から言葉が発せられる努力を重ねた。
               (当時のヘレン・ケラーとアニー・サリバン)
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ヘレン・ケラーは後年、障害を克服し教育者としてなっていくが
その陰で、アニー・サリバンの50年にも及ぶ指導があったのである。

アニー・サリバンは1936年、ヘレン・ケラーに看取られ
70歳にしてこの世を去った。

又、ヘレン・ケラーは1968年88歳で天寿を全う、
その間、2度の来日を果たし、教育家福祉家としての講演を行った。
               (パティ・デュークとヘレン・ケラー)
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映画「奇跡の人」は今や、多くの人からは忘れ去られた存在となっているが、
現在の教育の在り方、躾の問題が取りざたされる中で、
もういちど多くの方々に観てもらいたい作品だと思う。
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by shige_keura | 2016-03-30 10:56 | | Comments(0)



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
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