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カテゴリ:スポーツ( 344 )
名監督の要件???
プロ野球も交流戦を半ば過ぎて
佳境に入ろうとしている。

今年ペナントレースが始まる前
二人の新人監督に率いられたヤクルト(真中)と広島(緒方)に注目していた。

しかしながら、今のところ両チームはセリーグのBクラスに低迷、
苦戦を余儀なくされている。

以下のリストはプロ野球の歴史にあって、
リーグ優勝を4回以上し、日本一を1回は獲ち取った監督たちである。
(例外は西本元阪急監督)
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監督名  リーグ優勝数  日本一数

川上      11      11
水原       9       5      
鶴岡       9       2
森        8       6
西本       8       0
原        7       3
三原       5       4
野村       5       3
上田       5       3
長嶋       5       2
古葉       4       3
広岡       4       3
王         4       2
藤田       4       2
落合       4       1
星野       4       1

上記の監督が全て名将とは言わぬが、
監督として誇れる実績を残してきた人々だ。
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ここで問題をひとつ出そう。

上記の監督達に共通することは何だろう?
   

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by shige_keura | 2015-06-07 23:39 | スポーツ | Comments(0)
限りなき胡散臭さ
1988年6月中旬、新たな勤務地であるスイスのチューリッヒに到着。

長旅による疲労は紺碧の空、満々と水をたたえる湖、
遥かに仰ぐ神々しいアルプスの景観で吹き飛んだ。
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目の前にあるのは絵葉書そのものの美しい自然、
澄んだ大気は澱んだ肺の中をスキッと洗い流してくれた。

時差ぼけ解消のために我が家の周囲を散策、
先ず目に留まったのが当時世界ナンバーワンの座に君臨するホテル、
「ドルダ―・グランド」の威容だった。
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欧州随一の富める国スイスの象徴が目に焼きついた。

ホテルのほど近くの小路を入ると突き当たりに
煉瓦色をした地味な2階建てのビルが目に入った。

表示には「FIFA Headquarter」。

「なんだ! ここがワールドカップを取り仕切るFIFAの本丸か!!
 それにしても随分と地味で目立たないじゃないか」。

それから30年ほどの時間が流れた現在、
そのオフィスはチューリッヒ湖ばかりか
街を睥睨するかのようなゴージャスな建物に生まれ変わっている。
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モンスターのような怪物に成長した本丸、
そこに、今話題となっているFIFAの腐敗、
金権体質が垣間見られると思うのは私だけだろうか。
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副会長等の幹部の逮捕、
騒ぎの真っ最中に会長選挙が強行されたのは常識外、
その結果、ブラッタ―会長が5期目の続投となったのは驚き以外のなにものでもない。

ブラッタ―への支持がアフリカ、アジアの国々によるものは確かであり、
日本もいち早くブラッタ―再選を支持した。

投票は国の実力に係らず1票としてカウントされるので
国数が多いアフリカ、アジアは投票結果に大きな影響を及ぼす。

そもそも、ブラッタ―が会長に就任した1988年の選挙は
彼がアフリカにワールドカップ開催権をチラつかせ
票数を獲得したものと言われている。

事実2010年、アフリカではじめてのワールドカップが南アフリカで行われた。

アフリカでワールドカップを開催すること自体に
異議を唱えるつもりはないが
会長選挙に絡めた話となると筋が違ってくる。

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by shige_keura | 2015-06-01 18:09 | スポーツ | Comments(0)
いざ東京優駿へ
東京では夏日が続き、地方では真夏日も記録しているが
気になるのが31日に傘マークが出ていることだ。

5月31日は第82回を迎える東京優駿の日だ。

通称「日本ダービー」、3歳の若駒一世一代の晴れ舞台、
競馬の祭典に雨は興ざめ、良馬場で思う存分の力を発揮してもらいたい。

私が最初に馬券を買ったダービーが1966年、
今から50年近くも昔の事となる。

発走間近の合図で各馬がスタート地点に集まる頃より一天にわかにかき曇り、
雷鳴と共にバケツをひっくり返したような雨粒が馬場を叩いた。
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当時の出走馬数は28頭、
雨で煙る府中の直線、横に広がった馬群の中を割って
先頭で駆け抜けたのが5番人気のアサデンコウだった。

稲光りに後押しされたとしか思えぬアサデンコウ(電光)の勝利、
直線の途中で彼の骨折が判明したのは
雷雨が通り過ぎたあとの、勝利騎手インタビューの時だった。
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リュウズキ、フィニイ、ホウゲツオー、モンタサン等の人気馬は
雷鳴にひるんだかのように実力を発揮することが出来ずに馬群に沈み、
2着に来たのが勝利馬と同厩舎の穴馬、10番人気のヤマニンカップだった。

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by shige_keura | 2015-05-27 21:39 | スポーツ | Comments(0)
プロフェッショナルの言葉
大分旧聞に属するお話しとなるが。

5月13日、夜9時、テレビは東京ドームの
ヒーロー・インタビューを映し出している。

試合は1-0巨人が広島を下し、
投打の殊勲者大竹と大田がぎごちなくマイクに向かっている。

両者の締めの言葉が奇しくも同じ、
「これからも応援宜しくお願いします」。
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最近は野球に限らずサッカー、更には相撲までも
判で押したように聞かれる言葉が
「これからも、応援宜しくお願いします」。

なんとも嘘っぽく、これほど空々しさを感ずる言葉もない。
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又、ファンがその言葉を受けて盛り上がるところが
何とも嘆かわしい。

己にプロとしての自覚があれば
自分の考えを遠慮せずに堂々と述べれば良い。
それが本当のプロフェッショナルというものだ。

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by shige_keura | 2015-05-17 17:06 | スポーツ | Comments(0)
勝ちに不思議な勝ちあり
「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」。

もともとは江戸時代後期、平戸藩主にして剣術の達人、
松浦静山の書、「剣談」に書かれている言葉だ。

しかしながら、一般的にはプロ野球の元名監督、
野村克也氏が用いたことで有名になった。

野村さんの説くところは
「負けるときには何の理由もなく負けるのではなく
必ず何か負ける要素がある。
又、勝った時でも何か、負ける要素が潜んでいるのだが
不思議なことに勝利が転がり込んでくる」。

4月27日、日本各地で30度を記録、
夏を思わせる日差しのもとに行われた東京六大学野球、
慶應対明治の決勝戦はまさに、この言葉を地で行く展開となった。
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その予兆は早くも1回表、明治攻撃の時から匂っていた。

3つの四球と1安打、
しかしスコアボードには0(ゼロ)が刻まれた。

この場面をもう少し詳しく解説しよう。
      

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by shige_keura | 2015-04-28 22:31 | スポーツ | Comments(0)
歴史の彼方の甲子園 -3-
甲子園で活躍した嘉農の選手たち、
そして1931年以降の近藤監督の足取りを辿ってみよう。

近藤監督の期待に応えた1931年の嘉農ナイン、
中でもエースで4番を務めた呉明捷(1911-1983)の活躍は際立っていた。
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予選から甲子園全ての試合を独りで投げ抜き
4番として甲子園で0・412(三振ゼロ)と打ちまくった。

麒麟児と呼ばれた呉は
その後早稲田に入学1塁手として活躍、
通算本塁打7本は慶応の強打者・宮武と並び
長嶋茂雄に破られるまで神宮の最多本塁打として光り輝いていた。

               (嘉農同窓会、1959年 前列右から2番目が近藤兵太郎氏
                前列左端が呉明捷氏)
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準優勝のメンバーではなかったが、その後近藤監督の下、
春夏4回にわたり甲子園に出場した選手が呉昌征である。

尚、映画では自転車に乗った明るく可愛い少年として登場している。

彼は日本のプロ野球草創期の人間として欠かすことの出来ない人間だ。
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呉のプロ在籍は1937年から1957年までの21年間、
日本プロ野球史上20年以上在籍した最初の選手だった。

出場試合は1700試合、打者として首位打者を2回獲得しただけでなく
投手としても5年間プレーしノーヒットノーランも記録した。
               (巨人時代:左から楠、呉、一人とんで沢村栄治)
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大戦中に在籍したのは阪神タイガース、
本拠地の甲子園球場が芋畑となった時、
高校時の経験を活かし耕作指導員としての任にあたった。

               (ダイナマイト阪神打線:左から土井垣、金田、別当、藤村、呉)
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ファイト満々の呉選手、ニックネームの「人間機関車」の通り
戦後の阪神タイガース、ダイナマイト打線の一番打者としてチームを牽引した。

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by shige_keura | 2015-03-13 09:10 | スポーツ | Comments(0)
歴史の彼方の甲子園 -2-

迎えた決勝戦、嘉農の前に立ちはだかったのが
初出場とはいえ、優勝候補としての評判高かった中京商業だった。

中京商業を率いていたのが岡田源三郎(1896-1977)。

彼は東京生まれ、早稲田実業在学時、
捕手として1915年大阪府の豊中グラウンドで行われた
第1回夏の大会(正式名称:全国中等学校優勝野球大会)に出場した。
               (第1回大会始球式)
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その後、彼は1923年、第3代目の明治大学野球部監督として
ニ出川、湯浅、田部等の名選手を育てた。

岡田監督は捕手の目から嘉農を分析、
特に3試合で16盗塁と走り回った機動力に目を付けた。

「嘉農の足を封じよ!」
監督の厳命に見事こたえたのが中京商業バッテリー。
               (決勝戦の模様、嘉農本塁憤死)
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by shige_keura | 2015-03-12 09:04 | スポーツ | Comments(0)
歴史の彼方の甲子園 -1-
昨年暮れから年初にかけて
野球をテーマとした映画が3作品続けて封切られた。

「バンクーバーの朝日」、「アゲイン」そして
「KANO 1931 海の向こうの甲子園」である。

中でも日本・台湾合作映画であり
台湾で記録的な大ヒットとなった「KANO 1931 海の向こうの甲子園」は
日本でもロングラン興行、多くの観客を集めている。
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上映時間160分の大作「KANO」は
若干時間を持て余し気味であり、
野球の場面の本物度合いが不足しているものの、
お話の面白さ十分の一級娯楽作品となっている。

尚、KANOとは当時台湾にあった実在の学校、
嘉義農林高校(かぎのうりんこうこう)の略称であり
ユニフォームに表わされているチーム名である。
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映画は日本統治下の台湾、
主人公の熱血監督・近藤兵太郎に率いられた
無名の嘉義農林高校(嘉農:KANO)が
甲子園に駒を進め、準優勝を成し遂げた実話に基づいている。

野球が大好きな私にとっては何よりも
本作品の主人公・近藤兵太郎監督をはじめとする
野球に青春を打ち込んだ関連人物に興味を持った。
               (晩年の近藤兵太郎氏)
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近藤監督を辿っていくと、
そこには戦前戦後の激動の時代、
高校・大学・プロ野球草創期に白球を追いかけた
純真無垢の野球少年が躍動している。

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by shige_keura | 2015-03-11 09:16 | スポーツ | Comments(0)
背番号15変遷記 -元祖トルネードー
読売ジャイアンツを応援し始めたのは60数年前の事、
その当時、背番号15を付けていた選手が
1月18日、83歳で亡くなった。

岩下守道と言っても御存じない方が多いだろうが
私にとっては印象深い選手だった。

当時の彼の役目は1塁の守備固めに終始した。

何故ならば、同じポジションには
打撃の神様と称された川上哲治が居たのだから勝負にならない。
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しかし、岩下とて、若干線が細いとは言え
左右に打ち分ける打撃フォームはしなやかだった。

それに守備を見れば無骨な川上に比べ
エレガントでスマートなプレーを見せてくれた。

川上哲治1958年引退、
岩下にレギュラーのチャンス到来と思われた同じ年に
彼は国鉄スワローズに移籍してしまう。

早稲田実業で甲子園を沸かせた王貞治が
鳴り物入りで入団したからだ。
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しかし、1年目、王は期待外れ、
「王、王、三振王」と野次りまくられた。

同じ年、国鉄に移った岩下は打率0・280を残し
ベストテンの第8位に顔を出す成績を残した。

高校出の新人・王に負けてたまるかの
闘志がもたらせたものではないだろうか。

岩下のあとを継いだ背番号15の選手は
これも、大きな期待を掛けられた木次文夫だった。
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彼は松商学園から早稲田に入り
4番で主将の重責を担い、
本塁打は長嶋の8本に次ぐ7本を記録した。

当時、六大学は漸く背番号制を導入、
主将は10番と決められていた。

木次は早稲田野球部史上最初の背番号10をつけた選手だ。

因みに2代目の背番号10は
早稲田実業でスラッガーで鳴らし
国鉄スワローズに入団した徳武だった。

巨人が木次を獲得した理由は
期待通り成長できぬ王貞治にあった。

ところが、王は木次の入団に刺激されたかのように打ち始めた。

1塁以外守る場所のない木次は
たった2年間で巨人を去る憂き目を味わった。

木次のあとを次いで背番号15を付けたのが
今回の主人公と言っても良い城之内邦雄である。

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by shige_keura | 2015-01-24 21:29 | スポーツ | Comments(0)
プロ野球生誕80周年 -最多勝に想うことー
2015年プロ野球、セントラルリーグの最多勝は
中日の山井と阪神のメッセンジャーの二人が分けあった。

受賞そのものはお目出度いことではあるが
その勝ち星はたったの13勝、
果たして最多勝に相応しいものなのだろうか。

13勝の最多勝は過去に遡ると1回存在していた。

それは1998年のパリーグ、
受賞者は3名、西口、武田、黒木の3選手である。

最多勝が15勝を2つも下回ると、どうしても複数受賞者となり、
益々賞の価値が軽くなってくる。

野球も分業制が進化し打撃術も年々進歩、
更には用具の開発等もあって投手受難の傾向は止まらない。

しかし、ここまで昔の最多勝の勝ち星と差が出てくると
投手そのものの資質に昔と今に大きな差があるような感もしている。

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by shige_keura | 2014-12-29 13:51 | スポーツ | Comments(0)



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
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