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上越・北信の旅  -懐かしのホテル-
赤倉観光ホテルの創業は昭和12年、
当時、大倉財閥を率いていた大倉喜七郎が
上高地帝国ホテル、川奈ホテルに続いて作ったホテルだ。
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日本の高原ホテルの草分け赤倉観光ホテル、
何と云っても、その立地条件が際立っている。
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北信五岳の筆頭、日本100名山のひとつ
海抜2454メートルの妙高山を背後に控え
目の前のすそ野にはなだらかなスキーゲレンデが広がり
遥かかなたには野尻湖を見渡す事が出来る。
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スイスのリゾート地を思わせる赤倉観光ホテル、
歴史と伝統の良さを今に伝えている。
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居心地の良いロビーに寛ぐと
大昔の冬の一日が蘇ってくる。
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by shige_keura | 2013-05-29 20:13 | | Comments(0)
上越・北信の旅  -水芭蕉の花が・・・-
5月23-24日、久しぶりに長距離ドライブの旅をした。
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ここで言う上越とは妙高高原、
北信とは飯縄から志賀高原、
絶好の天気に恵まれ旅を満喫した。
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自宅を9時半に出発、
今日の目的地、妙高高原に近づいたのは14時半、
宿泊の赤倉観光ホテルに直行は早すぎる。

向かった先が「笹ヶ峰高原」、
当初は野尻湖へ行く予定だったのだが、
特に理由もなく目的地を変更した。
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結果的にはこれが良かったのだと思う。
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小規模な田舎のスキー場、
曲がりくねった山道、眼下に野尻湖を眺め
15キロほど行くと目の前が開け
緑の野原が広がる草原地帯が現れた。
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スイスでは良く見かけたアルプ、
即ち、アルプス山脈中腹の豊かな草原地帯に良く似ている。
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目に鮮やかな白樺林、カラマツ林、
上にばかり目を取られて見過ごすところだったが
小川のせせらぎの畔に水芭蕉が咲いていた。
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久しぶりに見る水芭蕉の群生だった。

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by shige_keura | 2013-05-28 21:50 | | Comments(0)
究極のダブルプレー
野球ファンの御同輩ならば、
以下のダブルプレーの記号の意味はお分かりいただけるだろう。

1-6-3と書いてあれば投手から遊撃手経由1塁手に転送、
5-4-3とあれば3塁手から2塁手経由1塁に、
頻繁に起こるダブルプレーの構図である。

では、こういうダブルプレーが起こったことを信じられるだろうか?

記号で書けば、7-2-3、
7(左翼手)から2(捕手)にボールが渡り
更に3(1塁)に転送されてダブルプレーが完成。

こんなダブルプレーは起こるわけがない、普通は。

この話に入る前に、5月15日の東京ドームを見てみよう。

セパ交流戦、巨人対ロッテの試合、
2回ロッテの攻撃、2死満塁で打者はグライシンガー、
打球は鋭くライト前に飛んだ。

ロッテは先制点、ベンチは沸いたに違いない。
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ところが、ライト・長野は捕球後、
強肩を生かし打者をアウトにした。
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打者が打ってから1塁までにかかる時間は平均で4.20秒、
このとき、グライシンガ-の所要時間は4.48秒、
0.28秒のもたつきがロッテの先制点をフイにした。

巨人としては、ライトゴロで打者を仕留めたのは
1988年、ライト・呂選手以来25年ぶりであるが
ライトは1塁に至近距離なのであり得ぬことではない。

しかし長い長い野球の歴史を紐解くと
とてつもない記録がるあることに今さらながら驚く。

1956年、東京六大学野球、立教対東大戦、
主役は親分こと故・大沢啓二さん。

予め、打球が三週間に来ると読んだ大沢さん、
極端な前進守備を取った前に打球が来た。

捕球するや否や、1塁に送球、
先ずは起こり得ないレフトゴロは
親分の類稀なる勘から生まれた。

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by shige_keura | 2013-05-21 08:54 | スポーツ | Comments(0)
鎌倉・戸塚、急ぎ旅 -お花の工場 その2-
「是は利益を目的として工場を興すことではない。
 むしろ道楽仕事であるので他人には迷惑はかけぬ。
 すべて、自分の責任で行う仕事である。
 商売を度外視して”良きが上にも良きもの”を作り、
 イギリス、フランス、イタリア以上のものを作りだしてゆきたい」

これは孫兵衛が大倉陶園を興す時の存念、
本人は「遺訓」と言っている。

「道楽仕事」!、よくぞ言ってくれました。

更に、彼は続けた。
「蒲田の土地に工場と共に
 別荘の如きショールームを作る。
 周りには四季の花々が咲く花壇を設け。
 これぞ、美術館を思わせる大倉陶園である」
               (お花の工場、当時の大倉陶園)
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               (大倉陶園、ジオラマ一部)
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孫兵衛は、残念なことに
道楽仕事の最初の作品を見ることなく世を去った。
               (大倉陶園、初窯作品)
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しかし明治一代男のあとを継いだ
大正モダンボーイ、大倉和親は
父の遺志を継ぎ陶園を世界に冠たる会社に導いていった。
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by shige_keura | 2013-05-20 09:30 | | Comments(0)
鎌倉、戸塚、急ぎ旅 -お花の工場 その1-
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戸塚の目的地・大倉陶園本社工場前は
樹齢100年を超えるツツジが満開、
創業者の遺志が脈々と今に伝わっている。
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創業者は大倉孫兵衛、江戸末期に生まれ
明治・大正にかけて、日本経済発展に多大な貢献をした
頑固一徹、気骨溢れる、明治一代男である。
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彼の実家は絵草紙屋、
横浜で外人相手に商売をしていた時
ひとりの男との出会いが人生を変えた。

その男の名前は森村市左衛門、
森村財閥の創業者として
経済ばかりか文化・教育の発展に尽くした男だ。

森村は当時、中津藩に馬具商として出入りを許され、
それが縁で福沢諭吉と知り合えた。

福沢諭吉の言葉、「貿易こそ日本の生きる道」に共鳴した森村は
弟や孫兵衛と共に民間初の商社、「森村組」を立ち上げた。

彼等が最初に手掛けた事業は陶器製造販売、
日本で作った西洋食器をアメリカで販売することだった。

「ノリタケ」の前身「日本陶器」の誕生である。

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by shige_keura | 2013-05-18 10:05 | | Comments(0)
鎌倉・戸塚、急ぎ旅 -花あり、谷あり-
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4月29日、桜の季節は過ぎ去ったとはいえ、
円覚寺の色とりどりの花々が我々を楽しませてくれた。
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子供の頃、どこの家の庭でも見かけた花がシャガ(射干)、
私はこの花が苦手だった。
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何故ならば、咲いている場所が湿り気を帯びた暗い場所、
更には茎、葉から漂うってくる香りが好きではなかったからだ。

何となく不気味な感じを抱いて見ていたような気がする。

しかしながら、この年になってみると
春の野に清楚な白いシャガが咲く景色、
派手派手しさが無い所が逆に素晴らしさを感じる。
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更に、シャガは現在東京都指定の準絶滅危惧種、
その姿は確かに見かけることが少なくなってきた。

その理由は首都圏から庭のある家が減ってきたことだろう。

何故なら、シャガは染色体のセットが3倍体と奇数なので
配偶子も出来ず種子もできない。

つまり、厳密には人為的でのみ分布の広がりが可能になる。

シャガはその昔、中国から伝わってきたのだが、
種子が無いと言うことは、誰かが鉢植えで持ってきたのだろう。
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大事に大事に日本に持ち込まれたシャガ、
こうしてみると、なおさら白い花が愛おしく見えてくる。

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by shige_keura | 2013-05-17 15:39 | | Comments(0)
鎌倉・戸塚急ぎ旅 -美男・美女-
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円覚寺を入ってすぐ左にあるのが
季節の花々で有名な松嶺院、
ここに一世を風靡した美男・美女が眠っている。
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田中絹代について形容する言葉は数多い。
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中でも代表的なものが「真の国際女優」、
「映画と結婚した女」、そして「恋多き女」となる。
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「真の国際女優」を説明するには
彼女が如何に国際的に評価を受けたかを語れば良い。

日本の女優数多いる中で、
世界の三大映画祭、カンヌ、ヴェネチア、
ベルリン全てで受賞の栄誉に輝いたのは田中絹代のみである。

「映画と結婚した女」の意味は一生独身を貫き
その間、100本以上の映画に主演しただけでなく
日本で2番目の女性監督として6作品のメガフォンを取ったということ。
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これは、絹代がその一生を映画に捧げたと言うことに他ならぬ。

にもかかわらず、彼女には「恋多き女」のフレーズが付きまとった。
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田中絹代と神宮の花形プレーヤー、
慶応の水原茂(のちの巨人監督)とのロマンスは
満天下のファンを騒がせたものだった。
               (慶応大学時代の水原茂)
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水原茂のちょっとした行動が元で
六大学史上最大の騒ぎとなったのが「リンゴ事件」、
そのとき、絹代は観客席で固唾をのんで事の成り行きを見守っていた。

田中絹代は一見おしとやかで純情そうに見えるが
実は芯の強い女性だったと思われる。

初のアメリカ訪問から帰国した時
羽田空港で投げキッスをしてファンの顰蹙を買った。
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「絹代は生意気だ! アメリカかぶれしている」

やがて、彼女は役を干され、松竹を退社した。

しかし、その後の彼女の活躍は目覚ましい。
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「楢山節考」、「サンダカン八番娼館 望郷」等で見せた
体当たりで挑んだ汚れ役、老け役
そこに居たのは確かに「映画と結婚した女」だった。

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by shige_keura | 2013-05-16 19:27 | | Comments(0)
鎌倉・戸塚急ぎ旅 -名匠二人-
墓銘には一文字、「無」と彫り込まれている。

当時、達筆の氏と言われた
円覚寺・管長、朝比奈宗源の手によるものだ。
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墓の主は、小津安二郎、
黒澤明と共に世界で最も評価の高い日本人監督である。

彼は蒲田撮影所開設直後に入社、
ここで日本無声映画最大の傑作
「生まれてはみたけれど」が誕生した。
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その後、小津安二郎50歳の時
松竹大船撮影所で生まれたのが
最大の傑作、「東京物語」である。
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小津監督のテクニックを論じることは出来ない。

しかしながら、あの時代に日本の将来、
即ち、高齢化、核家族化を冷徹に見つめた眼力には敬服するのみだ。
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彼は「無」に何を託したのだろうか?

多くの映画関係者が様々な解釈を加えている。

真実はしかしながら分からない。

ただ、はっきりしていることは
「無」の言葉は彼が中国の南京の或る寺で知ったこと、
そして、小津さんの享年は60歳、
まだまだ、彼はこの時点で死を身近にとらえていなかったということだ。
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だからこそ、「無」の解釈は更に難しくなっている。

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by shige_keura | 2013-05-15 08:51 | | Comments(0)
鎌倉・戸塚、急ぎ旅 -旅の目的-
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4月29日、薫風が青葉を吹き抜ける爽やかな日、
時刻は9時半、ここは横須賀線・北鎌倉駅前である。
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今日は、月例・蒲田の文化を研究する会の課外授業、
北鎌倉・円覚寺と戸塚の某社の見学会が予定されている。

蒲田と北鎌倉・戸塚がどうして関係があるのか?
それは、おいおい説明してゆくこととしよう。
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円覚寺は禅宗・臨済宗円覚寺派の大本山、
お馴染みの鎌倉五山の中では
建長寺に次ぐ第2格として君臨している。

因みに鎌倉五山とは建長寺・円覚寺のほか
寿福寺、浄智寺、浄明寺で形成されており
禅宗における寺の格式を表わしている。
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円覚寺の開基は北条時宗、弘安5年(1282)、
鎌倉の自然の中に歴史を感じさせる風格を放っている。
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見どころは数々あれど、我々の最大の目的は
蒲田のみならず日本の文化発展に寄与した
映画人4名の墓を詣でることだ。

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by shige_keura | 2013-05-14 08:31 | | Comments(0)
「矢口の渡」しと神霊伝説 -後篇-
戦いの数日後、首謀者・江戸遠江守は恩賞で得た土地に向かう為
因縁の矢口の渡しに差し掛かった。

すると、今まで晴れ渡っていた空が突如かき曇り
稲光と共に凄まじい雷鳴が轟いた。
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逃げ帰る遠江守が振り返って空を見上げると
緋威の鎧に龍頭の兜の義興が
角の生えた白馬にまたがって矢を射かけてきた。
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傷を受け館に戻った遠江守は義興の怨念が乗り移ったのか
7日間苦しみぬいた挙句にこの世を去ってしまった。

この話が人々の間で有名になったのは江戸時代末期、
発明家として有名な平賀源内が福内鬼外のペンネームで書きあげた、
浄瑠璃、「神霊矢口渡」に因るものだった。

以来、明治以降、人形浄瑠璃、歌舞伎の世界で
「神霊矢口渡」は人気演目のひとつとなっていった。
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従って、このお話も多分に源内の創作なのであろうが、
一方では、この矢口渡し近辺には
義興伝説特に雷に因んだ旧跡が多い。

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by shige_keura | 2013-05-13 08:36 | | Comments(0)



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
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