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春の北陸路 -3-
  「秘剣誕生の地」
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朝倉氏によって繁栄した一乗谷の遺跡から
ほど近いところに一筋の清冽極まる滝がある。
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その滝の近くに刀を構えた一人の武士の銅像がある。

その人の名前は誰もが知っている佐々木小次郎である。
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佐々木小次郎は謎の多い人物で
真相は解明されていないものの、
宮本武蔵との巌流島の戦い(1602年或いは1612年)は
日本史の中の最高の剣豪の果し合いとして
多くの小説、映画に取り上げられている。

このとき武蔵は戦いに備え、
刀ではなく船の櫂(かい)を使用したと伝わっている。
               (「船島」(巌流島に立つ二人の剣士の像)
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その訳は相手の佐々木小次郎の持つ、
通称「物干しざお」と呼ばれた3尺余の大刀を操る
秘剣「ツバメ返し」に対抗するためのものだった。

秘剣「ツバメ返し」の誕生の地が、
ここ一乗滝であったと言う伝承が今に伝えられている。

小次郎は若かりし頃、この地で「ツバメ返し」を会得したのだが
武蔵との巌流島の戦いは、これより数十年あとのことと伝えられている。

その時武蔵は20歳ごろの若人、
小次郎は60を超えまさに老境の剣術師だった。

では、何故、若かりし頃の小次郎は
この一乗滝で剣術に打ち込み「ツバメ返し」を自らのものとしたのだろうか?

               (尾上菊之助演じる映画・佐々木小次郎)
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佐々木小次郎は安土桃山から江戸時代にかけての剣客で
号を岩流或いは厳流を名乗った。

出身地には二説、豊前国(福岡)と越前国(福井)あるが
武者修行をしていた時代に
一乗谷、朝倉氏のお抱え剣術師である富田勢源に師事していたことがあった。

勢源は特に小太刀の扱いに優れ、
小次郎は何度挑戦しても勝つことが出来なかった。

小次郎は師匠と同じ長さの刀では勝てないことを悟ったのだが、
大刀をもってしても必勝の技を掴むことは至難の業、
悩みに悩みぬいていた。

そんなある日、小次郎は一乗滝を前にして考えに耽っていた時、
一羽のツバメが風を切るように目の前を横切り空に舞い上がった。

そのとき、小次郎の脳裏に閃いたのが、
飛んでるツバメを切ることが出来れば
師匠の富田勢源にも勝てることが出来るということだった。

こうして生まれたのが秘剣「ツバメ返し」なのである。

その奥義は次のようなものである。

相手に対して上段に構え、大刀を振り下ろす動作を起こし、
相手が思わず怯むところを、刀をすかさず下段におろし
瞬時に上に切り上げる必殺技である。
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これが世に有名な「ツバメ返し」、
吾等世代がおなじみの「チャンバラごっこ」でお馴染みの技である。
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目の前に見る、一乗谷川の清冽な滝、
周囲の緑の中を舞うツバメを想像すると
この地で小次郎がツバメに立ち向かった姿が実感出きるのが面白い。
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# by shige_keura | 2017-05-04 08:31 | | Comments(0)
春の北陸路 -2-
   「越前の山間・西の京」

福井市から東南30キロほど、
九頭竜川水系足羽川(あすわ川)の支流一乗谷川下流沿いに
一乗谷と呼ばれる谷合いがある。
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東西500メートル、南北3キロに及ぶひっそりとした谷合いに
その昔、西の京と謳われるほどの文化が発展していた。
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この地が歴史に現れるのは南北朝時代に遡る。

この時代から支配していたのが朝倉氏、
この谷合いは東西南は山に囲まれ、
北には足羽川が流れるまさに天然の要害だった。
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この地をめざし多くの人が集まったのが応仁の乱、
荒廃した京都から天然の要害に多くの人たちが逃れてきた。

その中には多くの公家、高僧、文人、学者が含まれ、
この地で華やかな京文化が開花する芽となった。
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戦国の世、朝倉孝景の頃にこの地は全盛期を迎え、
1万人を超える人々が暮らすまでとなっていった。

暗転したのは1568年、
将軍足利義秋が一時身を寄せた朝倉氏を見限って
美濃の織田氏を頼ったことである。

1573年朝倉氏は織田を迎え撃つも敗れ大野に背走、
織田信長は一乗の里を焼打ちにした。
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その後は一向一揆等の舞台となったが
越前八郡を賜った柴田勝家は
本拠を北の庄に移したことで一乗谷は歴史の舞台から消え去った。

400年近くも忘れ去られていた越のお里が
陽の目を見たのは1967年に始まった発掘調査。
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以来、この里が予想を遥かに上まわる規模を持った
都であったことが徐々に明らかとなってきた。

私が最初にこの地を訪ねたのは1990年後半、
その頃は未だ福井の奥田舎、ひなびた風情の中
にかつての北の京の片鱗は正直言って肌で感じなかった。

ところが、今回の訪問では
遺跡発掘が驚異的に進んだこともあって
北の京の雅な面影が実感となって感じられた。
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同時に遺跡発掘が如何にロマンを掻き立てるものかが良く理解できた。
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インディアナ・ジョーンズではないが
考古学にのめりこむ人の心境が大いに理解できた一乗谷訪問だった。
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# by shige_keura | 2017-05-03 10:51 | | Comments(0)
春の北陸路 -1-
   「桜に染まる古都」
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1997年から6年間暮らした古都、金沢は
3月下旬から4月にかけて町がピンク色に染まる。
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日本を代表する名庭園の兼六園をはじめ、
武家屋敷、犀川、浅野川、卯辰山どこも桜、桜、桜。
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百万石の町、金沢にとって最も相応しい季節到来を
毎年待ちわびていた。
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その後、東京に戻ってからも
年に一度は金沢を訪れてはいるが、
残念ながら、あの爛漫の桜を鑑賞することは出来なかった。

ところが、今年は春先の天候不順が味方し
桜満開があたかも、4月12日から3日間の
金沢訪問を待ってくれていたかのようだった。
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冬の雪吊りが全国的に有名な兼六園も
この季節の主役は桜、
緑青々とした名木、根上がりの松も
今日ばかりは脇役の座に甘んじるほかはない。
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兼六園の染井吉野を満喫した後は金沢城へ、
そこには白い大きな花弁を付けた太白桜、
ピンクの滝のような枝垂桜が咲き誇っていた。
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遠くに見えるのは昔の我が家があった卯辰山、
山桜がぼーっと霞んでいる。
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今は行われなくなった浅野川園遊会は季節の風物詩だった。
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浅野川に舞台、川床を架設し、
三味線、太鼓の音に合わせ東、西、
そして主計町の姐さんが艶っぽく踊る。
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川面をなでる春の風に桜の花びらが舞い散る、
これこそ百万石の金沢ならではの光景だった。
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金沢値千金の時を久しぶりに満喫した。
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# by shige_keura | 2017-05-02 16:27 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -11-
   宿命のライバル、

長々と続いた旅行記もいよいよ最後となる。

高松を訪れた私は金毘羅様、金丸座、讃岐うどん、等々
名所、名物はさておいて、
どうしても見学したいものがあった。
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それが中央公園に建つ二人の銅像、
水原茂、三原脩、共に郷土が生んだ
日本野球史に残る名選手にして名監督である。

スポーツの世界にライバル関係は良く取り沙汰されるが
水原・三原以上の宿命的ライバルは何処を探しても見つからない。

水原茂さんは1909年1月19日生まれ、
話と何ら関係ないが偶々私と同じ誕生日なのだ。
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彼は銅像から東に1.5キロにある
高松商業を経て慶應義塾大学に進んだ。

彼は幼少時に両親が離婚し
父が入り婿となったので水原姓を名乗ることとなった。

のちに水原さんはこう語っている。

「野球に熱中したのは寂しさ忘れようとしたからなのかな」。
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日本プロ野球の歴史上最高の洒落者、
ダンディ水原に憂愁の影が常に付きまとっているのは
幼少時の体験が影響しているものに違いない。

三原脩さんは1911年の生まれ、
銅像から西にわずか200メートルの所に或る
高松高校から六大学のこれまた名門の早稲田大学に進んだ。
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三原の生家は大地主、なにひとつ不自由なく育った彼、
監督時代のふくよかな顔つきからその生い立ちを容易に想像できる。
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高校から大学時代、
成績から見る限り水原さんが三原さんを圧倒している。

高松商業時代の水原さんは
同じ慶應に進んだ先輩宮武三郎とともに投手、三塁手として大活躍、
1925年夏、1927年夏と二度に渡り全国制覇している。

一方の三原は一度だけ甲子園に出たものの目立った活躍はなく、
香川県予選では常に水原にきりきり舞いさせられ、
ヒットはおろかバットに当てることも出来なかった。

その活躍は早慶に分かれて戦った神宮でも続いた。

水原は六大学野球随一のスター選手、
投手、3塁手として活躍、春秋通算5度の天皇盃に輝いている。

当時はプロ野球(職業野球)は下賤のスポーツ
東京六大学こそが日本のベースボールとして人気沸騰だった。
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水原さんの出る試合は常に超満員、
「水原さーーん」「がんばってー」「素敵-」、
黄色い声が神宮の杜にこだました。

三原さんは早稲田で2塁を守り3割近い打率を残すものの
人気は水原の足元にも及ばなかった。

ただ一度、三原さんは水原さんの鼻をあかせたことがあった。

1931年早慶2回戦、3塁ランナーの三原さんんは
投手水原さんの隙をつきホームスチールを敢行、
これが決勝点となって母校を勝利に導いた。

試合後、水原さんは言う、「あれはアウトだ」。

確かに写真が示す通り微妙なタイミングだった。
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二人の六大学時代にはおかしな共通点、
共に野球部を退部させられたと言うことがある。

水原は六大学史上というか、日本野球の歴史上最大の事件
「リンゴ事件」の首謀者として謹慎させられた。
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観客席からグラウンドに投げ込まれたリンゴを
3塁手の水原が早稲田側に投げ返したことを巡って
早稲田応援団が激昂、対する慶應も応戦、
球場には3,000人を超す観客が流れ込み警察出動。
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神宮球場は封鎖されるという緊迫の事態となったのである。

その後、謹慎中の水原さんは
マージャン賭博に関与したとの疑いで野球部を除名させられた。

三原さんはと言えば、学生中に通った食堂に働く女性に惚れぬき
誰にも言わずに結婚した。

これが早稲田野球部生みの親、
飛田穂洲の方針「学生は結婚するべからず」に触れたことで大部のやむなきに至った。

高校から大学、成績、人気度は水原が圧倒しているが
お互いがお互いを意識していたに違いない。

この関係がプロ野球、
二人が同じ巨人に入団したことでもつれにもつれていく。

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# by shige_keura | 2017-04-28 11:48 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -10-
 金毘羅様には椿のカフェ

金毘羅様の階段の数は約800、
嘘800ではない。

正確に言えば本殿までが785段、
その上の奥の院まで入れると1,368段にもなる。
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最初に100段ほどの上ったところに、
これ見よがしに、あと700段の案内板、
これを見たときは正直言ってガックリとした。

そうかといってお駕籠に乗るのでは男がすたる。

というよりも、駕籠に乗る気にはならない。

何故ならば駕籠を担ぐ人が
乗る人と同じかそれ以上のお年寄りが多いのだ。
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急な階段で担ぎ手がよろけて
駕籠ごと階段から落下していくのはたまらない。

齢を自覚してゆるりゆるり、
どうやら本殿にさほどバテルこともなく到着した。
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そのさき奥社は現在見学できないことを知り「しめしめ」と後戻り。
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急な階段と言うものは年寄りにとっては上りよりも下りが難儀、
暫く降りたところにあると聞いていたカフェで一休みする。
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この店の名前は「神椿」、
ツバキがトレードマークの資生堂が経営しているものだが、
立ち寄る理由は喉を潤すためだけではない。

この店の壁に描かれている田窪恭治さんの
椿の壁画を見たかったからである。

田窪さんと四国は切っても切れない関係にある。

彼は1949年愛媛県の今治で生まれ、
金毘羅宮奥の院の伊藤若冲の襖絵を見たことが
芸術家を志す決定的な出来事となった。
               (伊藤若冲の襖絵、奥ノ院)
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彼は40歳に近づこうと言うときにとんでもない行動に出る。

それは一家でフランスのノルマンディに移住したことだ。

その目的は当地にあるサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の修復だった。
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11年後に目出度く礼拝堂は修復し、
内部には田窪さんの描かれたリンゴの壁画が輝き、
以降、この礼拝堂は人呼んで「リンゴの教会」となった。
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田窪さんは日本に帰国後、
金毘羅宮の奥所の「椿書院」に椿の襖絵を描いた。
               (田窪さんの椿の襖絵)
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そして資生堂が「神椿」カフェの経営に乗り出した時に
壁に椿の絵をタイルで貼りあわせた。
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白地にブルーでさらりと描いた田窪さんの椿
はカフェを益々洒落た雰囲気に押し上げている。
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果物と餡がたっぷりと入ったパフェは濃厚、
心地よい時間を過ごしたあと
残りの下り階段に爺は挑んだのだった。
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# by shige_keura | 2017-04-24 21:54 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -9-
 成田屋、音羽屋、中村屋も勢揃い


讃岐と言えば金毘羅様なのだが、
長い長い石段を上る前にぜひ訪ねてみたい場所があった。

石段を登る直前、左に緩やかにカーブしている坂を上がると
目的の歌舞伎小屋が見えてきた。
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芝居小屋の名前は「金丸座」正式には「旧金毘羅大芝居」と言い、
現存する歌舞伎小屋の中で最古のものである。
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芝居小屋の歴史を辿ると、
江戸時代は三都以外では常設の芝居小屋は禁止されていた。

ただ、歌舞伎の大衆人気は高く、
それに応えるため金毘羅でも年3回(3月、6月、10月)の
金毘羅大権現のお祭りの際に上方の役者が仮設小屋で芝居を披露した。
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その後、常設を望む強い声に後押しされ
天保6年(1835年)三都以外の地で初めて
常設の芝居小屋(「金毘羅大芝居」)が金毘羅に建てられた。

明治以降芝居小屋の名前は「稲荷屋根」、「千歳屋」を経て
現在の「金丸座」となった。

そして昭和35年(1970年)、国の重要文化財として認定されたときに
正式名称を「旧金毘羅大芝居」と名付けられた。

但し、このとき、小屋は老朽化していたため
文化財としての保存を図る為移築復元計画が検討され、
昭和37年(1972年)現在の地に建てられた。

この時以来、東西の歌舞伎役者から強い出演希望が出た結果、
昭和60年(1985年)第1回「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が行われ、
以来、毎年春の風物詩として全国の歌舞伎ファンに親しまれている。
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訪れたときは春浅い3月、
芝居小屋は4月に行われる
第5代中村雀右衛門の襲名披露公演の準備前だった。

そのため、幸いして江戸の香りを残す芝居小屋の中を、
普段は見られぬ場所まで、
つぶさに見学することが出来た。
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低い入口を背をかがめ中に入ると
大相撲で見慣れた桝席が広がっている。
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役者になった気分で舞台の上から観客席を見渡す。
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この小屋では舞台の上だけではなく
観客席の上からも雪や花が散るように天井に隙間を設けている。
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更には奈落(地下)で見る花道のせりだし、廻り舞台
そして役者さんの控えの間等々興味深い小屋ツアーが続く。
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特に役者が移動する通路は狭く、階段は極めて傾斜が強く、
特に女形の役者にとっては重労働であることが理解できた。
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「金丸座」の定員は740名と地方としては立派なもの、
日本最古の舞台で演じられる歌舞伎、
一度は実際に観たいものである。
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# by shige_keura | 2017-04-22 21:20 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -8-
栗がないのに栗林公園

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今回の旅で訪れた島根県の足立美術館の庭園は
アメリカの専門誌でナンバーワンとして評価されている。

そして、高松の栗林(りつりん)公園も第9位に入っているばかりか
フランスのミシェランガイドで星三つを得ている美しい公園だ。
               (随一の撮影スポット、「飛来峰」からの眺望)
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ただ、その佇まいから公園と言うよりか
庭園と呼ぶ方が相応しく思われた。

明治時代の文部省の教科書によると
「栗林公園は日本の三庭園、水戸の偕楽園、金沢の兼六園、
 そして岡山の後楽園よりも美しい」と書かれていた。
               (南湖に浮かぶ楓島を望む)
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美しい公園の起源は16世紀とされているが
「栗林荘」と栗の字がついたのが延享2年(1745年)
高松藩主、松平頼恭の時代となる。
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ただ、訪れて不思議に思ったのは
栗林と名乗っているにもかかわらず
どこにも栗の木が見つからなかったことだ。
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名前の由来となった栗林は
最初の頃は確かに存在していたそうだ。
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ところが代々の藩主の鴨猟の際に
邪魔となると言うので伐採されてしまった。
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いずれにせよ公園の見どころの松の緑は誠に美しく
朝日に映えて清々しいばかり。
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これだけの庭を維持しているのが頷けるように
多くの関係者が立ち働いている。
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一心不乱に道を掃き清めていたおばさんが
ホウキの手を休めて、
見どころと道順を親切に教えてくれた。
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多くの庭師が立ち働く栗林公園、
芸術的に切り揃えた松を鑑賞、
朝の散歩を気持ちよく楽しんだ。
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# by shige_keura | 2017-04-21 11:42 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -7-
丸亀に過ぎたるのもが・・・・・

「家康に過ぎたるものがふたつあり、
 唐の頭と本多平八」

徳川家康の世をうたった戯れ歌である。

つまり家康は秀でたものをふたつ持っていた。

ひとつが唐の頭(当時珍しかった中国到来の兜)と
名臣の本多平八郎(忠勝)という意味になる。

これを丸亀に当てはめると、
「丸亀に過ぎたるものがふたつあり、
 弦一館に扇の勾配」、とでもなるのだろうか。

11万人足らずの小都市にこのように素晴らしいものがあったのか・・・
と言ったならば丸亀の方々に失礼になるのだろうが。
               (猪熊弦一郎美術館、後ろはJR丸亀駅)
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戦国時代の城造り、そして現代アート、
新旧ふたつの素晴らしい作品は丸亀駅の目と鼻の先に並んでいる。
               (大手門より天守閣を望む)
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丸亀城は日本全国で当時の天守閣を残している
12の城のひとつである。

因みに12城は以下の通りとなる。
  
 城名    旧国名     県名

弘前城     陸奥      青森
松本城     信濃      長野
犬山城     尾張      愛知
彦根城     近江      滋賀
姫路城     播磨      兵庫
松山城     備中      岡山
松江城     出雲      島根
丸亀城     讃岐      香川
松山城     伊予      愛媛
宇和島城    伊予      愛媛
高知城     土佐      高知

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# by shige_keura | 2017-04-19 22:09 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -6-
情の人

巨人を9連覇に導いた川上元巨人監督の言葉から始めよう。

「意の広岡、知の森、情の藤田」、
いずれも巨人出身の名監督を評した言葉だ。

広岡は万年Bクラスのようなチームを
意のままに鍛えるのが向いている。

森はある程度出来上がったチームを
彼の知力で動かせばよい。

若手中心のチームには藤田の情が
チームの一体感、信頼感を高めていく。

今治から丸亀に向かう途中、
西条、新居浜と大好きな藤田さん出身地の標識が現れて胸が熱くなる。

藤田さんは新居浜の出身、
甲子園とは無縁の西条北高校から慶應に入学した。
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野球部初日の練習、
藤田さんがブルペンで投げ始めた瞬間、
それ以外の時は止まったかのようだった。

「誰だ?あいつは!!すげー球だな!!!」。

おまけに、投球フォームの格好の良さ、
あたかも大空に向かって羽ばたく鷹のような
伸びやかさと力強さがあった。
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その伸びやかさは今見る
風光明媚な瀬戸内海の景色と繋がっていることを感じた。
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慶応時代の成績31勝19敗は、
志村と並び宮武三郎に次ぐ2位。

抜群の成績ながら1年以外、
中心選手として優勝の経験はなかった。

ノンプロの日本石油時代に日本一を味わうも、
巨人の現役時代は一度として日本一になれなかった。

それでも彼は黙々と淡々と投げ続けた。
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巨人入団初年は17勝で新人王、
翌1958年、29勝、1959年は27勝で
連続MVPの栄誉を得たが日本一の美酒は味わえなかった。
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172センチ、夏場には60キロを切る痩身を使った全力投球、
いつしか藤田さんには「悲運のエース」、
「球界の紳士」とのニックネームが付けられていった。

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# by shige_keura | 2017-04-16 13:38 | | Comments(0)
出雲~松江~米子~広島~丸亀~高松 -5-
尾道から

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本州と四国を結ぶ道路は三本、
最も西に位置しているのが西瀬戸自動車道路であり
本州側の起点が尾道である。

今回の旅で残念だったのは
時間の関係で尾道を見学できなかったことだ。

ただ、通りすがっただけではあるが
緩やかな坂、見下ろすは瀬戸内海、
風光明媚でたおやかな町の表情が窺えた。
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尾道と言えば映画、小説に数多く登場するが
我々世代にとって最も親しみ深いのは
小津安二郎監督の代表作「東京物語」となろう。

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# by shige_keura | 2017-04-15 10:11 | | Comments(0)



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