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思いでのプロ野球選手  -22- (2)
”ポンちゃん”

同僚、ファンが親しみをこめて
大下さんに名づけた愛称だ。

その由来は様々ある。

先ず第一は、
ポンポンと高い放物線を描く
ホームランを次々と放ったからだ。
思いでのプロ野球選手  -22- (2)_c0135543_1812927.jpg

次に、戦時中英国戦艦、
”プリンス・オブ・ウエールズ”の
対空砲がよく飛ぶので
”ポンポン砲”と名づけられ
それと同じように飛んだから。

大下さんの気前の良さは天下一品、
ポンポンと湯水の如く
金をばら撒いたから。

大下さんが入り浸った
京都の御茶屋街
先斗町(ポントチョウ)のポンにひっかけた。

このように諸説紛々だが
恐らく一番最初の説が
正解ではないだろうか。

何故なら、大下さんが
プロ入り直後に記録した
本塁打数は破天荒だったからだ。

彼ははプロ野球に入団した初年度
昭和21年に20本のホームランを打ち
本塁打王に輝いた。

人々は彼の放った
本数、20本に眼を剥いた。

何故なら、それまで12年間のプロ野球の歴史
本塁打王の最高記録は
中島、鶴岡両選手の
10本だったからだ。

大下さんの凄い所は
本塁打だけでなく
打率面でも非凡な記録を残したことだ。

1951年に記録した
打率0.383は
今でもバース、0.389
イチロー、0.387、0.385
張本、0・383に次ぐ
プロ野球歴代5位の座にある。





更に1949年対大陽戦に記録した
1試合、7打数7安打は
今でもプロ野球記録として残っている。

このとき、大下さんは
前日の飲みすぎで
酷い二日酔いの状態だった。

これは、本人も証言しているのだから
嘘ではないだろう。

何しろ、ボールが二重に見えたから
とにかく真ん中辺りを叩こうと打っているうちに
7打数連続安打となったと言う。

このような逸話から、
大下さんは練習嫌いの噂がたつ様になった。

しかし、真実は違う。

彼は自分が練習する姿を
人に見られることを
極端に嫌っていた。

それは、西鉄時代の同僚
大津守氏の次の証言で明らかだ。

               (西鉄、巨人を破り日本一、三原監督を囲んで)
思いでのプロ野球選手  -22- (2)_c0135543_18125833.jpg

当時の西鉄OB会
必ず三原さんと大下さんが
隣り合わせに座り
毎年、同じ会話をしていた。

三原さんが先ず口火を切る。

「皆、おまえは練習しなかったと言うが
 何かしていたはずだ。
 あんた、練習しておっただろう?」

大下さんの返事は
決まってこうだった。

「いいえ、練習はしませんでした」

それが、大下さんが死ぬ1年前のOB会
彼は初めて別な言葉を口にした。

「・・・・・・・・・、ご存知でしたか」

               (西鉄黄金時代のレギュラー面々)
思いでのプロ野球選手  -22- (2)_c0135543_18163457.jpg

大下さんは背番号3、
彼の現役引退の前年
若き背番号3が登場する。

読売ジャイアンツの
長嶋茂雄選手だ。

戦後のプロ野球は
背番号3に乗って
復興から繁栄への道を歩んでいった。

それでは、明日は
大下さんと同じ背番号3の長嶋
更には、大下さんのあとを継いだ
ホームラン王、王貞治選手との
比較等について紹介していこう。
by shige_keura | 2009-06-16 07:54 | スポーツ
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