10月7日正午をまわる頃、
到着空港には プラカードを手にした 中国人女性のお出迎えだ。 彼女は単なるガイドではない。 敦煌研究院のれっきとした研究員で 日本にも訪れた事が有る。 ![]() 「日本文化財保存学術考察団」 ![]() ここは、目的地の敦煌、 空港周囲は見渡す限り 砂漠と岩山が取り囲んでいる。 ![]() 吾等一行、団長、三輪嘉六氏(九州国立博物館、館長) 以下総勢40名、 その殆どが考古学、美術関係の先生方たちだ。 中に極く僅か、 場違いの物見遊山の観光者が若干名、 かく言う我々夫婦もそこに含まれている。 ![]() 考察団の目的は 世界遺産として中国で最初に登録された 莫高窟(ばっこうくつ)を初め 仏教美術の歴史が1000年以上も残されている 4つの窟の調査、見学にある。 4泊5日の本日が初日だが 先ずは敦煌の紹介から始めよう。 ![]() 私にとっての敦煌は 東西交易路(シルクロード)の要所であり 異民族の侵入を防ぐ 中国の西の砦として 馴染み深い名前だった。 ![]() しかし、敦煌は交易、軍事の要所ばかりでなく 文化の、特に仏教美術が 花開いた場所なのでもあった。 西方に求法、東方に布教した人々の多くが 敦煌を往来したわけだから 古くからこの土地に 仏教が根ざした事は容易に理解できる。 具体的には、”4世紀の敦煌に多くの寺院あり”と 書物に記されている。 当時から、僧侶たちは 住居の為ばかりでなく 修行の場、埋葬の場所として 窟を作っていたのである。 ![]() 更に、このような窟の中の多くが 仏教の歴史、説話等を 塑像で祀り 壁画で後世に伝える 用途も有していた。 ![]() 現在、敦煌で発見された812もの窟の中で 最も古いものは 430年ごろ、北涼時代に作られているものだ。 それ以降、北魏、西魏、北周、隋、 唐、五代、宋、西夏、元と 10王朝、1,000年もの長きに渡って 仏教美術の花を咲かせ続けたのだ。 敦煌は一時期、沙州と呼ばれていた如く 砂の州、つまり沙漠に覆われている。 そして、町は砂漠の中にある 幾つかのオアシスを源として 栄えていったのである。 ![]() 従って、敦煌の自然は 極めて対照の光景を生み出している。 ![]() 例えば、ビロードを思わせる柔らかな砂漠の隣りには ゴツゴツした奇岩の山が連なり 長きに渡って侵食された奥深い谷が パックリと口を開けている。 ![]() 砂漠を背にしたオアシスには 緑滴るポプラ、楡が群生し 色とりどりの花々 瑞々しい果物が実り 田畑には彼らの生活の糧である 綿花が一面に栽培されている。 ![]() ![]() 美術的に、そして自然美的に言っても 類稀なる存在、 それが敦煌なのである。 ![]() ![]() 今日から4日間の調査、見学、 実に楽しみである。 ![]() ■
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by shige_keura
| 2009-10-19 09:05
| 旅
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