大森の貝塚を語る時
避けて通れぬ人 それは申すまでも無く モース博士だ。 (モース博士像、遺跡公園内) ![]() アメリカの生物学者であった彼は 東大の教授として招かれ 船で横浜に着いた。 時に1877年6月18日 博士の39歳の誕生日のことだった。 翌19日、彼は横浜から 電車で東京に向った。 大森を過ぎて ふと左を見たとき 彼の目に地層に剥き出しになった 大量の貝殻が飛び込んできた。 (地層から見える大昔の貝殻、遺跡公園内) ![]() 専門の考古学者ではなくとも 彼は、ここはかつて人類が 生息していた場所だと推論した。 ここで注目すべきは それまで日本人は 誰一人として気がつかなかったことである。 その時代、考古学としての学問が 日本では他国に比べ 相当に遅れていたということだろう。 モース博士は 東大での仕事はさておいて 同年の9月16日に 発掘調査を開始した。 そして、僅か5日の後に 大森貝塚の論文を発表した。 (縄文人が暮らしていたとされる痕跡、遺跡公園内) ![]() 異常なまでに性急に事を運んでいる。 それは、恐らく同じ発掘調査を急ぐ 一人のライバルの存在を うすうす感じ取っていたのではないだろうか? その男の名前は ハインリッヒ・フォン・シーボルト、 父が西欧での日本研究の草分け フィリップ・フォン・シーボルトである。 ハインリッヒはモースと同時期 外交官として来日し 造詣の深い考古学研究を行っていた。 そして、モースと相前後して 大森貝塚の発掘を行ったものだから 事はややこしくなってしまった。 世界的に有名な”Nature”誌を顧みると 1877年12月19日に モースの貝塚発掘の記事が出ている。 一方、シーボルトの活動は 翌年1月31日の 同じ”Nature”誌に報じられている。 最終的にはモースの正式報告書が いち早く出版されたことにより 彼が大森貝塚の 最初の発掘者として 認知されたのだ。 ところが、このモース氏が原因で 貝塚の正確な場所が紛糾するのだが 続きは明日に、 ■
[PR]
by shige_keura
| 2010-01-22 08:56
| 旅
|
Comments(0)
|
![]()
→過去のブログを見る
ホームページ
![]() LINK ![]() カテゴリ
全体食 旅 観 スポーツ その他 LINK
最新のコメント
以前の記事
2018年 01月2017年 12月 2017年 11月 more... 検索
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
LINK FREE
このブログの写真・テキストの無断使用はお断りします。
(c) 2007 shige_keura. All rights reserved.
| |||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||