学生、プロを問わず
神宮球場を騒がせた最大の事件は 水原が引き金を引いたとされる ”リンゴ事件”に止めを刺す。 1933年秋の六大学リーグ戦 1勝1敗のあと受けた早慶戦は 9回表からリンゴ事件のマグマが膨らみ 試合終了直後に大爆発した。 この試合、水原は試合終盤まで控えとして 主に3塁コーチの役割を買って出ていた。 波乱の予兆はあった。 審判の判定が抗議で覆ることは プロの世界でも滅多に無い。 ところが、試合中何度と無く判定に疑義が呈され 1度ならずも2度までも 審判の判定が監督、選手の抗議で覆ったのだ。 最初はハーフスイングのストライクの判定が 慶應の抗議でボールにとひっくり返った。 もつれる判定、もつれる試合、 得点は8回の表を終わって 早稲田8-7の1点リード 追いつ追われつの展開が繰り広げられていた。 8回裏、慶應の攻撃、 このとき1塁走者盗塁に対する 審判セーフの判定が 早稲田、高須遊撃手の抗議でアウトに覆った。 2度目の判定覆えしだ。 直後、水原がコーチャーボックスを飛び出し 猛然と審判に抗議したことが 早稲田応援団の態度を硬化させた。 悪いことに、9回の表 水原が3塁の守備位置に着いた。 「あの生意気な水原めが!!」 早稲田応援席から 様々なものが水原めがけて投げ込まれた。 そうしたなかで、喰いかけのリンゴがひとつ 水原の前にコロコロと転がってきた。 「神聖なグラウンドにものを投げ込むとはけしからん!」 それでも、水原は努めて冷静に バックトスでリンゴをファールゾーンに投げ返した。 ”バックトス”この早稲田応援団から見て 小洒落た、猪口才と見えるプレーが 彼らを刺激したが その場はどうにか納まった。 ところが、9回裏 9-8と慶應が逆転サヨナラ勝ちとなったことで 早稲田応援団の怒りは爆発、 全員が1塁側慶應席に殺到した。 慶應側も負けてはおらず 早稲田応援団を押し返し 一時はグラウンド内に1万人を越える 双方応援団が対決する構図となった。 この間、慶應応援団の銀の指揮棒が盗まれ それが慶應側の怒りに油を注ぐ事となった。 「生意気な水原を出せ」 「早稲田応援団の暴挙は許せぬ、 指揮棒を返せ」 騒動は泥沼化する一方であったが 早慶の思慮深い人物の登場で それ以上の騒動は回避された。 一人は早稲田野球部生みの親、安倍磯雄、 「今回の一件、悪いのは早稲田応援団である」 もう一人は慶應の名塾長、小泉信三、 「塾の相手を思いやる名誉ある解決を望む」 これによって喧嘩両成敗 早稲田応援団の活動自粛、 水原茂の謹慎の裁定が下った。 慶應野球部としては”泣いて馬謖を斬る”思いの 水原処分だったに違いない。 (当時、水原が着ていたユニフォーム) 後年、水原はこう語っている。 「私は今でも思うのだが 当時の審判がグラウンドに物が投げ込まれているのを見て 何らの処置を講じなかったのは怠慢だ」 ゲーム中に2度にわたる判定の覆し、 そして水原の意見、 この事件の首謀者はまさしく審判であった。 11月9日に謹慎となった水原だが 12月3日に野球部除名処分となった。 何故なら、この間 水原に麻雀賭博の容疑がかかったのだ。 水原としてはムシャクシャしている気持ちを 麻雀でもやって気を晴らそうと思ったのだろう。 しかし、時期が悪る過ぎた。 こうして、水原は除名という 三原以上に厳しい処分を受け 傷心のまま慶應野球部を去っていった。 こうして、二人のライバル関係は プロの世界へと移行していく。 明日に続く。
by shige_keura
| 2010-04-10 19:08
| スポーツ
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