11月25日、ここは青山霊園内にある外人墓地。 ”秋の陽はつるべ落とし” 何時の間にか陽は西に傾き、 冷気を含んだ風が頬をなでる。 ときおり、積もった枯葉が風にあおられ かさこそと冬の足音を奏でている。 目の前の古い墓碑、 Memory of Rev. T. A. Largeとある。 「ラ-ジ師に捧ぐ」 これだ! これに間違いない!! 名前の下には、”Killed April 4,1890”、 ラ-ジさん(カナダ人宣教師)は殺されたのだ。 彼は何故、どのように殺されてしまったのか? その背景を探ってゆくと、 そこに、私の母校、 麻布学園誕生にまつわる秘話が横たわっている。 さて、御同輩諸氏であるならば、 小林一三(1873-1957)の名前を 母校の先輩ではないにしても、知らぬ人はおらぬであろう。 彼は主に関西を拠点に活躍した 日本の大実業家の一人。 鉄道を起点とした都市開発、流通事業の一体化を進め 相乗効果を高める私鉄経営モデルの原型を 築き上げた人物として名高い。 彼は阪急電鉄をはじめとする 阪急東宝グループ(現・阪急、阪神、東宝グループ)創業者、 従って、宝塚歌劇団、プロ野球、映画、デパート、 一般庶民の娯楽を一手に引き受けていた大人物である。 ところが、彼が慶応義塾大学在学中 ペンを執っていたことを知る人は少ない。 山梨県出身の小林一三は 郷里のつてで1890年、山梨日々新聞に タイトル「練絲痕」(れんしこん)なる小説を連載していた。 これは、実際に起こった殺人事件をモデルとした推理小説である。 モデルとなった被害者は 申すまでもなくラ-ジ師である。 1890年で推理小説を書いた!!!! 「えっ、本当か!!」と感じる方は 相当なる推理小説ファンである。 何故なら、その当時、 日本には推理小説なるものが確立されていなかったからだ。 日本はおろか世界広しと言えども 未だ推理小説には陽は当たっていなかった。 あの、シャーロック・ホームズで有名な コナン・ドイルが第1作、 「緋色の研究」を世に出したのが1887年、 初のシリーズ化、「四つの署名」を出版したのが1890年だった。 日本に目を向けると、 推理小説草創期の傑作と言われる 岡本綺堂の「半七捕物帳」発表が1917年。 日本推理小説界の大御所、 江戸川乱歩のデビューが1923年の事だった。 だから、小林一三の「練絲痕」が 如何に時代を先取りしていたものか、 彼は、ことほどさように先行きの見通せる男だったのだ。 さて、ここにもう一人、 この事件を随筆集の中に書いた才女がいた。 続きは明日、
by shige_keura
| 2011-11-28 18:08
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