先ずは、私の日本史に対する
無知を露呈しなければならない。 その昔、絵本とは言え「源平盛衰記」を読んでいるので その内容は概ね把握していた積りだ。 それが、どうだ、まるで間違えた認識をしていたではないか! 「池月」、「磨墨」の先陣争いで有名な「宇治川の合戦」、 この戦は、てっきり源氏と平家の間で行われたものと思っていた。 ところがどっこい、この合戦は、 頼朝、義経軍と木曽義仲が戦ったものなのだ。 木曽義仲は源義仲とも言われ、 頼朝、義経にとっては従兄弟に当たる人、 即ち、「宇治川の合戦」は源氏の内輪争いだったのだ。 いやいや、お恥ずかしい限りである。 この合戦への出陣前、 梶原景季は頼朝に「池月」の拝領を願い出た。 しかし、頼朝は「池月」を手放すことを拒み その代わりに「磨墨」を景季に与えた。 「磨墨」はその名前の通り 磨った墨の様に黒光りした美しい馬、 景季は勇躍、馬にまたがり戦場に赴いた。 景季出陣後、頼朝の前に現れたのが 同じく鎌倉殿の重鎮であり、 先陣争いの主役を務めた佐々木高綱だった。 高綱はもしも「池月」を拝領出来れば 見事、宇治川を先頭で渡って見せると宣言、 その勢いに負けたのか、頼朝は愛馬を彼に与えてしまった。 宇治川を前にして高綱は景季に合流したのだが、 そのまたがってる馬を見て景季は驚いた。 「何と! 池月ではないか!!」 自分よりも高綱を寵愛した頼朝、 思わず、景季は刀の柄に手をかけ詰め寄った。 その時、高綱いささかも慌てず、こう言い放った。 「拙者、宇治川を先頭で渡りたい一心で 厩から殿の愛馬を盗んできた」 得心した景季はきびすを返し川に乗りいれた。 あとに続いたのは勿論、高綱、 前を行く景季に声をかけた。 「景季殿、馬の腹帯が緩んでおりますぞ」 これはいかぬ! 景季が馬を止め注視したが、そのような気配はない。 「しまった! 謀られたか!!」 見ると、高綱の乗った池月は先頭で 宇治川を渡りきってしまった。 ここまでの話、全てが真実であるとするならば、 佐々木高綱と云う男、 良く言えば、”機転が利く男”、 悪く言えば、”悪智恵の働く男”、 どちらにせよ、相当な切れ者だったのだろう。 いずれにせよ、この戦いで勢いを得た義経軍は 一挙に上洛、義仲は北陸に逃れたが 粟津の戦いで討ち死にする。 源氏の勢いは留まるところを知らず 一の谷で時を窺う平家を破り 瀬戸内海の屋島の戦いにおいても一蹴、 関門海峡の壇の浦で平家の息の根を止めた。 さて、名馬2頭のその後は定かではない。 池月は福岡、大宰府を任された 主人、高綱と共に九州に渡り 再び、鎌倉の地は踏まなかったと伝えられている。 一方、磨墨は生まれ故郷の馬込で 一生を全うしたとの伝承が残っている。 「源平盛衰記」を盛り上げた名馬2頭の物語である。
by shige_keura
| 2011-10-22 23:16
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