西郷・勝会談は2日間に渡って行われた。
場所は初日が薩摩藩・高輪の中屋敷、 翌日が同じく薩摩藩・田町の蔵屋敷だった。 本来使われるべき三田の上屋敷は 焼き打ちの影響で使うことが出来なかったと伝えられている。 三田・NEC本社敷地内に或る薩摩藩上屋敷跡の碑 「一日西郷に接すれば、一日の愛生ず。 三日接すれば、三日の愛生ず。 親愛日に加わり、今は去るべくもあらず、 ただ、死生をともにせんのみ」 西郷隆盛の人間性魅力を述べた言葉、 西南戦争で最後まで西郷に従った 中津藩士、増田栄太郎が残した言葉だ。 坂本竜馬の西郷評、 「大きく打てば大きく響き、 小さく打てば小さく響く釣鐘のような人物」 春風駘蕩、自然体の西郷を表わす絵が 銅板となって薩摩蔵屋敷跡に残されている。 二日目の勝海舟との会談 刀を帯びて座る海舟に対し西郷は丸腰で相手をしている。 一方の勝海舟は相手の西郷が 江戸の町が焼けおちることの意味、 とりわけ日本周囲を取り囲んだ欧州列強が どう見てとるかを理解していると信じていたに違いない。 (江戸城無血開城時の勝海舟) 勝海舟は西郷隆盛の人間としての度量の広さを分かっていた。 そのうえで、勝は用意周到に事を運んでいた。 即ち、幕府側についたフランスに対抗すべく 新政府軍についたイギリスを利用した。 具体的には英国側の口から 新政府軍に対して徳川幕府の存念を語らせた。 内容は大まかに言うと次の通りだ。 「幕府は交渉決裂の時は江戸の民衆を千葉に避難、 そのうえで新政府軍を江戸に誘いこみ 町を焼き払う、焦土作戦の覚悟でいる 英国としてはあまり好ましい事態とは思えぬ」 3月13日の会談は平行線、 勝海舟は和宮と天璋院・篤姫の身の安全を約した、 一方、西郷は既に山岡鉄舟に託した 江戸城総攻撃回避6条件の約束を迫った。 会談終了後、二人は愛宕山上にのぼり 眼下に広がる江戸の街並みを眺めたと伝えれている。 (愛宕神社境内) 3月14日、会談は田町の薩摩藩蔵屋敷で行われた。 (第一京浜沿いの三菱自動車ショウルーム前、 ここが蔵屋敷跡、会談の記念碑と銅板がある) 田町駅の慶応側出口に或る壁に 当時の西郷・勝会談の壁画が残されている。 勝海舟の提案は西郷要求の6条件とは全く異なった内容だったと言う。 にもかかわらず、西郷は明日に迫った 江戸総攻撃のひとまずの中止を決定した。 ここは、池上本門寺近くにある松濤園、 小堀遠洲が手掛けたもののひとつと伝えられている。 月が4月に変わって9日、 ここで、西郷隆盛と勝海舟の会談が開かれた。 (松濤園内にある会見記念碑) この時は、既に江戸城総攻撃は中止の前提で 今後の進むべき道が二人で語られていった。 こうして、日本の首都は 江戸から東京へ変わる寸前で 無残な姿に晒す事を免れたのである。 江戸城総攻撃が決定されたのが3月9日、 僅か1ヶ月の間のギリギリの攻防で 新たに名前を変える首都は灰塵から免れたのである。 尚、このとき、勝海舟が松濤園に赴いた事が 彼の余生に少なからず影響を与えることとなった。 続きは次回。
by shige_keura
| 2013-03-08 08:27
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