田舎の鄙びたローカル線の香りを漂わせ
多摩川と蒲田の間を走っているのが東急多摩川線だ。 駅数は終着、始発駅含め僅かに7つ、 路線距離僅かに5.6キロ 1時間半足らずで全線を歩くことが出来る。 軌道の間は雑草が生え放題、 とてもとても都内とは思えぬ景色である。 多摩川から蒲田に向かい 終着蒲田のひとつ手前に矢口渡駅がある。 駅の由来はお察しの通り、 この地に多摩川を越える渡しがあったからである。 多摩川は暴れ川、昔は架橋することは叶わず、 中世より要所に待機していた渡しが旅人を運んでいた。 この「矢口の渡」しも六郷の渡しのひとつ、 丸子の渡し、平間の渡しと並び、 多くの旅人にとって古くから利用されてきたのである。 (大正時代の矢口の渡し) この地は私にとっては高校時代の思い出の地。 何故なら、当時この場所に在った 昭和電工のグラウンドを借りて 真夏の炎天下、ボールを追いかけていたのだ。 ただ、その頃は、ここ矢口の渡しに 南北朝時代、悲運の武将にまつわる 神霊伝説があることなど知る由もなかった。 武将の名前は新田義興、 父は鎌倉攻めの折、稲村ケ崎で海に献刀したことで有名な 南朝方の旗頭とも言える新田義貞である。 新田義貞は楠正成と共に湊川の戦で南朝方に敗れ 北陸に落ちのびたが討ち死してしまった。 時に長男の徳寿丸7歳の時、その後、元服を迎え 「義貞の家を興す男」の使命を担って義興と名乗った。 延文3年(1358)宿敵・足利尊氏死去、 鎌倉から聞こえる旗上げ要請に応え 義興は部下僅か13名と共に矢口の渡し船に乗りこんだ。 そのとき、義興は、敵の謀事が周到に 張り巡らせてあることは夢にも思っていなかった。 当時の矢口の渡しは、川幅400メートルもの大河、 対岸に向かう船が川の中ほどに差し掛かったところで異変は起きた。 敵に買収された頓兵衛と呼ばれる船頭が突然川に飛び込み かねてから仕掛けてあった船底の栓を引きぬいた。 同時に朝もやの中から無数の矢が射かけられ、 義興方も奮戦するが、所詮は多勢に無勢、 義興は今やこれまでと切腹した。 ここに父子2代に渡る天下獲りの野望は果てた。 ところが、話はこれで終わっていなかった。 続きは明日以降に。
by shige_keura
| 2013-05-11 17:50
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