戸塚の目的地・大倉陶園本社工場前は 樹齢100年を超えるツツジが満開、 創業者の遺志が脈々と今に伝わっている。 創業者は大倉孫兵衛、江戸末期に生まれ 明治・大正にかけて、日本経済発展に多大な貢献をした 頑固一徹、気骨溢れる、明治一代男である。 彼の実家は絵草紙屋、 横浜で外人相手に商売をしていた時 ひとりの男との出会いが人生を変えた。 その男の名前は森村市左衛門、 森村財閥の創業者として 経済ばかりか文化・教育の発展に尽くした男だ。 森村は当時、中津藩に馬具商として出入りを許され、 それが縁で福沢諭吉と知り合えた。 福沢諭吉の言葉、「貿易こそ日本の生きる道」に共鳴した森村は 弟や孫兵衛と共に民間初の商社、「森村組」を立ち上げた。 彼等が最初に手掛けた事業は陶器製造販売、 日本で作った西洋食器をアメリカで販売することだった。 「ノリタケ」の前身「日本陶器」の誕生である。 ニューヨークの一等地5番街に店を出し、 市左衛門の弟の豊かと共に赴任したのが 孫兵衛の息子・大倉和親だった。 その後、「森村組」は傘下に、 東洋陶器(TOTO)、日本碍子、日本特殊陶業(NGK)を立ち上げ、 今も、日本のセラミック産業をリードしている。 大倉孫兵衛・和親は森村組に尽力する一方、 伊那製陶(INAX)、カガミクリスタル、 関刃物、サカタのタネ等に資本を投下し事業をバックアップした。 大倉孫兵衛は66歳の時脳溢血に倒れ 徐々に第一線から身を引き 湯河原で病気療養の生活に入った。 しかしながら、孫兵衛は己の夢の実現に 強い意欲を持っていたのだった。 1917年、75歳の時、孫兵衛は 湯河原に息子・和親を呼び驚くべき計画を打ち明けた。 それは、自己資金だけで誰にも邪魔されずに 自分が思い描く超一流の西洋陶磁器を作ろうとのものだった。 孫兵衛は既に蒲田に1万3000坪の用地を購入し、 後の日本を代表するデザイナー日野厚を呼び寄せていた。 こうして、今でも日本を代表する高級陶磁器、 大倉陶園は蒲田の地に産声を上げた。 (世界的に有名な大倉のシンボル・「ブルーローズ」) 時に孫兵衛76歳の時だった。
by shige_keura
| 2013-05-18 10:05
| 旅
|
| ||||||
ファン申請 |
||