今回の内容は、鎌倉時代の隠れたる史跡訪問、
鎌倉と逗子の間にひっそりと眠っている。 源頼朝が初の武家政権を樹立したのが1180年、 その本拠に選んだのが鎌倉だった。 (鎌倉、源氏山にある頼朝像) 鎌倉を選んだ最大の理由は立地条件、 前方は海を臨み、後方は山に囲まれる天然の要塞、 攻め落とすのにこれほど難儀な場所もない。 しかし、そこは諸刃の剣、 敵の攻め方によっては孤立を余儀なくさせられる。 こうして、周囲の地と人の往来、物資運搬の為 最小限の道を切り開いていったのが鎌倉切通し、 今では「鎌倉七口」と呼ばれている。 基本的には道幅は狭いのだが 利用目的に因って微妙に異なっている。 鎌倉幕府3代目の実朝は海に目を向けた。 今でも箱根十国峠には 実朝が相模湾を見下ろしながら詠んだ句碑が残っている。 「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」 彼は本格的に宋との交易を目指したが 建造船があえなく座礁し夢を断たれてしまう。 実朝没後を継いだ北条氏は港の建設に力を入れ 由比ヶ浜東端に和賀江島港を築いた。 (和賀江島港復元図) 時に、1232年、この港が日本最古に築かれた港で 今は遠浅の時だけ海面に顔を出し往時の一端を伝えている。 (今に伝える和賀江島港の痕跡) 和賀江島港に続き東京湾に面する六浦に より安定的に運営できる大規模な港が作られた。 六浦に立派な港を作っても 鎌倉との間に道が無ければ 港としての機能を果たした事にはならない。 こうしてできたのが朝比奈の切通し、 鎌倉七口の中では比較的道幅があり整備されていた。 一方、名越の切通しは鎌倉から逗子に抜ける切通し、 当初、難越(なこし)と命名された通り 山の間を縫うように作られた峻険な道だ。 何故ならば、当時鎌倉側にとっては 衣笠城に本拠を置く三浦氏は大きな脅威だった。 ここに広い道を作れば 三浦氏に攻め込まれる危険性が高くなるからだ。 さりとて、最小の通り道、 せめて三浦氏の動静を探る 間者の往来を助けるルートが必要だった。 こうして出来上がったのが名越えの切通し、 今でも当時の面影を残す貴重な史跡である。 更に、ここの切通しには 鎌倉時代の重要な文化遺産 「まんだら堂やぐら群」があるのだ。 「まんだら堂やぐら群」は基本的に非公開、 春秋のそれぞれ1カ月の週末にのみ公開される 知る人ぞ知るの史跡なのだ。 5月25日土曜日、春の特別公開が終わりに差し掛かる頃 逗子に住む従弟夫婦と4名で「まんだら堂やぐら群」見学に訪れた。 「まんだら堂」とはどのような建物なのだろうか? この名前が確認できる最も古い文献は 1590年の検知帳なのだが そこには畠としての地名で記されているのみである。 従って「まんだら堂」がどのような建物なのか 建立時期、存在していた期間、なにひとつ解明されていない。 まんだら堂そのものは無くとも ここでの圧巻は4層に連なる150以上もの「やぐら群」である。 「やぐら」とは方形に切り開いた祠で 「岩窟」(いわくら)、「谷戸窟」(やとくら)が名前の由来である。 「やぐら」を作る目的は、納骨所、供養施設とされ 中世鎌倉を代表する遺跡である。 ここに葬られたのは有力武士や僧侶が多く 「やぐら」の中には五輪塔が並び この一画だけ不思議な空間を醸し出している。 ここから出土した遺物からの推定では 鎌倉時代の後半から「やぐら」の掘削が行われ 室町時代の中ごろ(15世紀末)まで 供養が行われたものとされている。 草深い山腹に静かに眠る「やぐら」 視覚的効果と想像力をかきたてられる両面から より一般的に知らしめる史跡になれば良いと思う。
by shige_keura
| 2013-06-14 09:45
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