世界史上類を見ない広大な領土を誇ったローマ帝国が
英国(ブリテン島)へ食指を伸ばしたのは紀元前55年の事だ。 当時ガリア人と戦っていたカエサル(ジュリアス・シーザー)が ブリテン島に遠征を試みるが失敗に終わった。 その100年後、皇帝クラディウスの世、 ローマはブリテン島を属州とし、 以降、当地のローマ化が進んでいったのである。 ローマ帝国はその後、第14代皇帝トラヤヌスの時代(98-117)に 最大の領土を誇ったのだが、それは北は英国、 南はアフリカ大陸北岸、西はスペイン・ポルトガル、 東はトルコにまで広がっていた。 しかし、次代皇帝・ハドリアヌス(117-138)は ブリテン島における、度重なるケルト人の侵入に悩み、 帝国の北限(現在のイングランド北端)に東西に延びる長城を築いた。 (第15代皇帝・ハドリアヌス) これは、ローマにとって実に象徴的な出来事だった。 何故なら、この時を境にローマは攻め(領土拡張)から 守り(領土維持)に政策を一大転換したのである。 (エディンバラの南、スコットランドからイングランドに入る) (長城が遠く、草原の中央に右に左に伸びている) スコットランドの首都・エディンバラから南西250キロ、イングランドの北端、 ここにハドリアヌスが築いた長城の一部が残っている。 工事を開始したのが122年、 以降10年で長さ118キロに及ぶ長城の完成が完成した。 壁の高さは4-5メートル、厚さが3メートル、まさに堂々たる壁、 ローマ人の道路をはじめとするインフラ作りの優秀さに 今さらながら目を見張る想いがした。 皇帝は長城(ウオール)だけを築いたのではない 約1.5キロごとに監視所を設けたほか6キロ間隔で要塞を築き上げ、 それぞれの砦に1,000人に上るローマへ兵士を駐屯させた。 この辺の様子は、後日訪問したロンドンの大英博物館に詳しく展示されていた。 (大英博物館展示、ハドリアヌス長城の要塞) 尚、要塞の詳細な発掘の結果、ローマ軍の優れた装備が判明したほか 意外なものが出土されたのである。 それは2万点に及ぶ出土品の中から発見された1000足に及ぶ子供と女性用の靴、 当時、軍の規律では独身が義務付けられていたが 実際には要塞に駐屯していた多くの兵士は家族を持っていた。 更に、軍の機密をラテン語で記した木片も数多く出土され その中には「脱走兵」「除名」との文字が見受けられた。 これの意味するものは、当時のローマの領土は極限状態、 兵士たちは移動を強いられた為に、 家族に逢いたい一念で多くの兵士が脱走したことである。 帝国の繁栄は永遠にと思われていた中で 遥か遠くの領土の北限では異変が進行しつつあり 蟻の一穴が476年の西ローマ帝国の滅亡に繋がっていったのである。
by shige_keura
| 2014-07-06 18:33
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