Top
大女優についての「ちょっとした」考察
11月25日、新聞紙上に一斉に報じられたのが
「伝説の大女優・原節子逝く」だった。
c0135543_1641545.jpg

彼女は「東京物語」「麦秋」「晩秋」等で
日本を代表する女優となっていった。

ただ、原節子が大女優としての地位を築くのは、
映画界からの早すぎる引退、謎に包まれた私生活等、
その神秘的な側面が後押ししたといって良いと思う。

謎のベールに覆われた大女優、
その意味では西のグレタ・ガルボと並び称される存在だった。

グレタ・ガルボ(1905~1990)はスウェーデン生れ、
トーキー映画初期のハリウッドを代表する女優である。
c0135543_16434431.jpg

彼女は1924年本国で女優としてのデビューを飾ったが、
それを目にとめたハリウッド大手、MGMの誘いでアメリカに渡った。

1926年、第3作目「肉体の悪魔」で
ガルボの名前は全米中に知られMGMの看板スターとなっていった。

「ガルボが話す!」。

これは彼女が1930年に初めて出演したトーキー映画、
「アンナ・クリスティ」の宣伝文句であり、彼女は全米を代表する女優となった。

ところが1941年、彼女35歳の円熟を迎えた時、
突如、映画界から引退した。

以降、多くのファンからの復帰を望む声にも耳を貸さず
二度とスクリーンに顔を見せることはなかった。

彼女はこの世を去る1990年までのほぼ半世紀の間、結婚もせず、
公の場所にはほとんど姿を見せなかったと言われているが、
実際は少し違っているようだ。

ガルボは1951年アメリカの市民権を得て
マンハッタンで独り暮らしをしていく。

その間、例えば1963年には
ホワイトハウス公式晩餐会の招待に応じ出席した。

その時の印象をケネディ元大統領夫人である
ジャクリーンは次のように話している。

「彼女はとても魅力的でユーモアに溢れる女性だったわ」。
c0135543_16451343.jpg

ガルボが世間に背を向けているとの噂は
マスコミが彼女に、ことさら神秘的なベールをまとわせようとした
意図的なものであったようである。

ただ確かなことはガルボ自身、
映画、映画界を好ましく思っていないことが
引退理由だったということである。

彼女は死ぬ4年前にスウェーデンの某伝記作家にこう語った。

「私はハリウッドに疲れてしまったの。
 仕事も好きになれなかったし撮影現場に行くのが辛かった。
 私は全く別の人生を送りたいと思っただけ」。





原節子の場合はグレタ・ガルボに比べると
人生における浮き沈みが更に大きかったようである。

1920年横浜に生まれた原節子(本名:会田昌江)、
生家は生糸の輸出を営む裕福な問屋だった。

最初の悲劇は1923年、関東大震災の際に
母が頭から油を被ったことにより精神を病んでいったことだ。

次の悲劇が1930年、世界大恐慌の影響で
生糸は大打撃を蒙り家業が傾いていったことである。

そのため、学校を中退し家計を助けるべく
叔父の映画監督、熊谷久虎を頼って映画女優を目指していった。
c0135543_16463649.jpg

1935年映画デビューするや
節子のエキゾチックな美貌が話題を呼び
1936年、大監督、山中貞雄の「河内山宗俊」に大抜擢された。

偶々、来日中のドイツ映画監督である
アーノルド・ファンクの目に留まり
日・独・伊合作「新しい土」に出演し、
世界一周キャンペーにも参加した。

このころから彼女は戦争のプロパガンダとも言われる
国策戦争映画(「ハワイ・マレー沖海戦」、「決戦の大空に」等)に
積極的に出演していくようになった。
c0135543_1651041.jpg

このことが後年、彼女自身に
自分の喉に突き刺さった骨のような痛みを与えていく。
c0135543_17173767.jpg

終戦後、彼女は一族郎党を支えるために
資生堂のイメージガールとしての仕事をこなす一方、
積極的に映画出演をしていかざるを得なかった。
c0135543_16515658.jpg

1946年から1950年までの5年間、
彼女の映画出演は実に26作品にも及んだ。

エネルギーを消耗し疲れ果てた彼女に
次の悲劇が襲ったのが1953年、
撮影中に目の前で兄が列車にはねられ死亡してしまったことだ。

1963年慕っていた名匠・小津安二郎が
60歳にしてこの世を去ったのが決定的な引き金になったのか、
原節子は映画界から引退したばかりか
公の場には一切姿を見せなくなった。

時に43歳の時、ガルボ35歳と比べ
8年遅いとはいえ早すぎる引退だった。

原節子が演技的に上手い女優なのかどうか?
私には判定できない。

しかし、「東京物語」をはじめとする
出演映画の彼女の存在感は際立っている。

それが彼女の美しさだけから来ているとは思えないのだが、
それが何であるのか・・・・・・、
「孤高」と言う言葉が最も当てはまっているように感じる。

更に突き詰めていくと
彼女は映画あるいは映画人とは、自ら一線を隔していたのではないだろうか。

そのように考えなければ、引退後の
頑なに世間から自らを隔離した彼女を
理解できないことになってしまう。

原節子は映画と言うものをどのように考えていたのだろうか?
一度でもいいから聞いてみたかった。

最後に「青い山脈」(今井正監督)で原節子と共演した
杉葉子さんの今回の訃報に当たってのコメントを引用したい。
               (「青い山脈」の二人)
c0135543_16523054.jpg

「どんなスターでも自分の最も美しい角度があるのですが、
 原さんの場合は、どの角度から撮っても完璧な美しさでした。

 地方ロケの時には撮影スタッフ一同が大広間に集まり、
 食事をして賑やかに過ごしておりましたが
 原さんは決してご自分のお部屋から出てこられませんでした。
 若いスタッフが酒の勢いで“ちぇっ、気取っちゃって”と言うと
 池部良さんが“そんなこと言うなよ”とたしなめておられました。

 私の俳優生活中、数本の映画にご一緒させていただいて、
 人間としても俳優としても心から尊敬しお慕いしている方です」。
[PR]
by shige_keura | 2015-12-30 16:57 |
<< ファイナル・カウントダウン 師走の金沢 -木守り- >>



2007年9月末にこちらに引っ越してきました。
→過去のブログを見る


ホームページ 



LINK 

カテゴリ
全体



スポーツ
その他
LINK
トリップアドバイザーにお勧めブログとして認定されました。金沢 ホテル
旅行口コミ情報
以前の記事
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
more...
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

LINK FREE

このブログの写真・テキストの無断使用はお断りします。

(c) 2007 shige_keura. All rights reserved.